生臭くぬめる血液の床に、人間だったモノがごろごろと転がっている。
もげた屈強な腕、皺枯れた脚、若い女の弾けた胸、幼い大きな瞳。すべて死に嬲られて、今ではもう意味を成さない。
レイは、ただそこに立っている。
「仕方がない…」
不意に漏れた呟きに自分で驚いていると、足首を何かに掴まれた。
それは、ついさっき斬り殺した子供の手。
「お兄ちゃん…うさぎの眼のお兄ちゃん」
「……!」
信じられないくらいの力が加わり、足首が軋む。
「赤いのは…血の色…?」
振りほどけないんじゃない。身体が動かないのだ。
「淋しいなら、僕らと一緒に行こう…ねぇ…?」
「…離せ!」
睨み付けると、にぃっと少年は笑った。
「淋しいだけのくせに」
飛び起きると呼吸が荒く、全身から嫌な汗が吹き出していた。
ぱさりとタオルが乾いた音を立てて落ちる。どうやらシャワーを浴びた後、そのまま転寝してしまったらしい。
「ずいぶん唸されていたけど………悪夢(ゆめ)でも見たのかな?」
突然降って湧いた声に慌てて顔を上げると、仮面のような笑顔を貼りつけた青年が覗き込んでいた。
「ルシファー…。いつから人の寝顔を観察するのが趣味になったんだ?」
「ん?今かな。君の顔は綺麗な造りをしているからね」
心にも無いことを平然と言ってのける青年に、レイは睨みを効かせた。
ふふっと機嫌良さげに笑みを零し、ルシファーはタオルを拾いあげる。
「悪夢(ゆめ)なんて見ないさ」
嘲笑を浮かべていることを自覚しながら、それでも言葉を口にした。
そう、見るのは夢なんかじゃない。
………………現実だ。
「レイ、事後検査がまだだよ。来なさい」
この男はいつだって観察者だ。恐ろしいまでに冷静に、任務を遂行する。
定期的に刻まれる電子測定音に鼓膜から侵されて、レイはいつも何かを見失う。
この手も、この足も、この目も、すべて組織のために存在する。この身体は、殺しの道具。
突き付けられる事実が潔すぎて、逆に力が抜けるのかもしれない。
「右腕、両目ともに獣(ビースト)化による影響は無いみたいだね。いつも通り」
白衣を羽織ったルシファーは、電極を外しながら言った。カルテの上でさらさらとボールペンが走っている。
獣の細胞を埋め込まれた身体は、変形し硬化して鋭い灰色の刄になる右腕、拡大可能で夜目の効く金の瞳を持っている。
その改造のせいで、闇人形(ダークドール)と呼ばれる、通常の暗殺者10人分相当の殺傷能力を持つことになってしまった。
それが悲しいことなのか、レイには分からない。
「いつも通りで、残念?」
気怠い目を向けると、ルシファーは肩を竦める。
「そんなに睨まないでよ。冗談さ。………おや、チェスは終わったのかい?」
冷たい開閉音と共に現われたのはマリアだった。
「えぇ、ギリギリで負けちゃったわ」
「ふぅん…あのカオス様相手に、“ギリギリ”ね…」
苦笑して診察台に座る少女を、ルシファーは目を細めて眺めた。
不躾に向けられる視線をただ見返しながら、マリアは細い糸を爪弾いたような涼やかな声で、
「カオスが呼んでいたわ。すぐに、と」
「お茶の時間にはまだ早いんだけどな。行ってくるよ」
ルシファーが足早に上司の元に向かった後、マリアは隣を指差してレイに座るように促した。
「身体は…?無事?」
眉を寄せて心配そうに見上げてくるので、レイが素っ気なく頷いてやると、彼女はほっとしたようにソファに背を預けた。
「……俺なんかの心配をしている場合ではないだろう。お前は…」
囚われの姫君らしく縮こまって涙でも流していればいいものを、自分を貶める男と向かい合ってチェスに興じるような気丈さ。それは余計に痛々しく見えた。
しかし彼女のそのしたたかな強さに、レイは救われている。
この地下深い施設の内は、あまりにも光が乏しいから。
「私は此処から動けないもの。戦っているのは、貴方たちだし」
伏せた瞳に、長い睫毛がかかって影が落ちた。彼女は己の無力さを悔しがっているように見えた。
「違う」
「え?」
彼女は肉体をカオスに取り上げられ、指一本すらも自分の意志では動かせない。
自分の身体を好き勝手に弄ぶ男たちを見ているなど拷問でしかない。しかも己の肉体から生み出されるのは、殺戮を目的とした生態兵器。
想像するだけで吐き気がする。自分ならば、発狂してしまうかもしれない。
(いっそ狂ってしまえれば、楽になれるだろうに…)
不思議そうに見上げるマリアの、汚れを知らないかのような大きな瞳に魅入りつつ、じわりと染み込む胸の痛みに顔を歪める。
「お前は戦ってるだろう。そんな姿になっても、まだあいつらと向き合っている。お前の精神力が強すぎて手に負えないから、カオスは心身を分離させたと聞いたぞ」
「それは、そうだけど…。でも結局、私は自殺もできずに捕まって、こうして…」
情けなく笑う彼女など見たくなかった。
そう思ったとき、身体が勝手に動いていた。
「………レイ?」
不審そうな声があがり、自分が彼女を抱き締めようとした事に気付く。すり抜けた手が温もりを感じたように錯覚する。
「お前の強さが…笑顔が。俺たちの、闇人形(ダークドール)の、救いだ」
はっとしたような顔をしてこちらを見上げたマリアは、今まで見たことの無いくらいゆっくりと淡い微笑みを浮かべた。
「ありがとう」
そっと立ち上がって振り向いた彼女の、彼女の姿を保っているホログラム装置つきの赤い髪飾りが電灯をきらりと反射した。
「私のこと、名前で呼んでくれる?まさか忘れちゃった訳じゃないよね?」
くすくすと無邪気に笑う様子に、レイは息を吐いて肩を竦めてみせた。
「…マリア」
「なんだ、ちゃんと言えるじゃない」
楽しそうに微笑む彼女になんとなく憮然としつつも、レイの口元が珍しく緩みかけたそのとき、館内に警報が鳴り響いた。
「お楽しみ中のとこ悪いな、No.8。出動らしいぜ」
開いた扉から慌ただしく顔を出したのは、引き締まった長身をレイと同じ白い礼服で包んだ青年だった。
緑と金のオッドアイが、軽口とは裏腹な落ち着きを湛えている。
「6(シックス)、いつから伝令役になったんだ」
「ついさっきだよ。今回は、俺たち二人が担当することになった」
「了解」
「そんな…!レイはさっき帰ってきたばかりなのに…」
「仕方ないよ。他は出払ってる」
非難するマリアに、No.6、カイトは切なそうな表情をした。そして彼女に柔らかな苦笑を与えて、
「マリア、心配しなくてもレイは死なないさ。強いからね。すぐに終わらせてくるさ」
「カイト、貴方は?」
真っすぐな彼女の視線に、青年は僅かに惑う。
「二人ともよ」
本当は許されないことだと、彼女も身に染みているだろう。しかし。
「二人とも無事に帰ってきて」
彼女の瞳はいつだって曇りなく正直だ。
武器を携え、身仕度を整えたレイが見やる。
「わかった」
「…聖母の願いならば」
青年たちは、またその白い礼服を朱に染めに行く。
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