コツコツと革靴が立てる冷たい残響が耳障りなほど響く硬質な廊下をレイは足早に歩を進める。
外界と地下を結ぶこの通路を、レイはあまり好きではなかった。
背後に開いてる地上への出口がまるで針の穴のようにか細くて、余計な暗さまで感じてしまうからだ。
真っ白な礼服に染み込んだ血は、すでに汚らしく変色し乾き始めていた。
そのばりばりした感触に眉を潜めていると、唐突に耳元に声が吹き込まれる。
「ずいぶん派手な格好だね、レイ」
「!、ルシフェル…」
「ふふふ、驚いたかな?僕が君の敵じゃなくてよかったね」
にっこりと、この場所には不釣り合いな平いらかな笑みを浮かべた青年は、艶やかな黒髪をさらりと鳴らして首を傾けた。
その計り知れない何かを奥に隠す瞳にいくばくかの戦慄を覚えながら、レイは「そうだな」と興味無さげに相槌を打つ。
ルシフェルは楽しそうに顔を歪めると、ひらりと前に躍り出る。
整った作りの顔に優雅な物腰の線の細い青年に、レイはいつも圧倒的な劣等感を持たずにはいられない。
さっきのは、危なかった。
「早く行って着替えた方がいいよ、血塗れの闇人形(ダークドール)さん。カオス様もお待ちだろうし」
「……わかっている」
己も全身血塗れだというのにそんなことを言うルシフェルの姿が、仄暗い廊下に浮かび上がる。
蛍光灯の明かりはしらじらと冴えすぎていて、すべてを現実離れさせていた。
小さく唸りる機械の山を抜けた先には巨大な円柱型の水槽があり、チューブから漏れる空気がこぽこぽと音を立てている。
聖母の部屋という神聖な通称を裏切る無機質さだ。
試験管や水槽や機械のランプの光に溢れてはいるけれど。
その中央には黒い革張りのソファとガラス製のテーブルが置かれている。
不釣り合いなことこの上ない。
さらにテーブルの上にはチェス盤が置かれ、男と少女が向かい合って座っていた。
「ルシフェル、レイ、報告を」
気配を察したのか、チェス盤から目を話さずに男が言う。
年は30前後、長い銀髪を無造作に背に流した男は、いつも冷酷な鋭さを身に纏っている。
眼鏡の奥の瞳は底が見えず、その蒼い深淵はレイの背筋をいつだって寒くさせた。
「はい、カオス様。翠の薔薇(エメラルドローズ)を潰しました。幹部の一族郎党を抹消。関係者各位も消去、または記憶操作。組織としての機能は完全に失われたと思われます。危険因子生存の可能性が小数点以下になるまで、しばらく監視をつける予定です」
「いつも通り、手際がいいな」
彼は漆黒の駒を静かに置く。
白い騎士が盤上から姿を消した。
カオスは愉快そうに駒を弄んだ後、対面している少女を見つめた。
「これで、また駒が減ったぞ。どうする?」
無言で見つめ返す少女の首はひどく細い。いや、首だけではなく、腕も脚も腰もすべてが細い。
ガラス細工の壊れ物のような美しさだ。
肩口で切り揃えられた柔らかな髪も、長く影をつくる睫毛も、濡れたように光る瞳も、薄く色付く唇も白く透けそうな肌も小さく細い指も。
しかし、レイは知っている。 その瞳が驚くほど澄み切ってあたたかく、奥に強い光を失わないこと。
「…考える時間をください。まだ手が無いわけじゃないと思います」
そう、存外しっかりと通る声を聞いて、カオスは満足げに笑みを浮かべた。
「レイ」
ようやく振り向いたカオスに、レイはふいっと視線を外す。
「…すべて、あんたに命じられたとおりだ」
「そうか」
その傲慢な声に何が何でも逆らいたいような衝動が唐突に沸いたが、その衝動に身を任せるほどレイは愚かではない。
「俺は部屋に戻る」
苦々しく吐き出してきびすを返すと、ちょうど少女の煌めく瞳とかち合った。
まっすぐな光に射ぬかれていたたまれなくなり、レイは即座に目を逸らした。
あれは何だ。
どうしてあんな目ができる?
「レイ。夕食後のメンテを忘れないでね」
ルシフェルのからかい混じりの言葉を一瞥し、レイは金属の扉が閉まる電子音を背中で聞いた。
とにかく、早く熱いシャワー浴びたくて仕方がなかった。
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