仄暗い廊下を憎憎しげに靴音を響かせて歩いていた少年は、薄明かりの漏れる引き戸に手をかけて深呼吸をする。
胸の内に渦巻く苛立ちを扉にぶつけて、敬愛するかの人を驚かせないためだ。
「ユディ、そこに居るのだろう?」
そっと戸口に手をかけた途端、甘く空気を這うように溶ける声が投げかけられた。
取り戻しかけた冷静が飛び跳ねた鼓動に簡単に追いやられて、するりと逃げてしまった。
「…失礼します。帝、あの…捕らえた陰陽師の件なのですが…。」
「レックスが逃がしたか。」
「!? ご存知でしたか…。」
目を丸くすると、肘置きに預けていた身体を起こした帝と呼ばれる青年は、
傍らの水を張った青磁の甕の縁をそっと撫でる。
「この水鏡は、よく見える。レックスはあの陰陽師に懸想しているのだよ。詮無いことだ。」
彼の長い指は隠居生活のためか青白い。しかし華奢な印象は与えなかった。
ただ、ただ美しいのだ。
肩を流れた長い白髪をその指で優美にかき上げて、瞳も上げた帝 ── 月仁は、ユディを見てそっと笑みを零す。
「どうした?ずいぶん憤っておるようだな。」
「あ、当たり前です!」
仕草の1つ1つがどこか浮き世離れしている青年に見惚れてしまっていた呪術師の少年は、
慌てて我に返り唇を噛む。
「せっかくの捕虜を逃がすなど…!風の愛児をこちらのモノにする絶好の機会でした。さらにヤトマの術師ならば、これからの作業に役立っただろうに…!」
心底、頭にきているのか、悔しげなその表情はいつにもまして歳相応に幼かった。
自分にだけ胸中を見せる少年の姿は、月仁を喜ばせ、愛しいという感情を呼び覚ます。
「ユディ。」
皇族服がさらりと鳴る。
月仁は手招きをしながら、じっと見つめて薄く微笑んだ。
それだけで少年の胸はとんでもなく早鐘を打って、彼は戸惑った。
目を逸らさなければいけないと理性が告げるのに、耳を擽る声にも縛られたユディは動けない。
まるで操り人形のように御前に引き寄せられてしまった。
「私には、優秀な呪術師が居るではないか。」
白い指が、そっと慈しむように少年の丸みを帯びた頬に触れる。
金色の髪が歓喜に震えた。ひんやりとした温度が伝わる。
「そなたが居れば十分だ。」
御簾越しではなく直接吹き込まれる囁きは、酷く甘くて脳が痺れるようだ。
「帝…。」
その高貴な身体に自ら触れてしまえば、すべて終わってしまいそうでユディは必死に瞳を閉じた。
「それに…かの鍵は必ず本来の持ち主の元に戻ってくる運命なのだから。」
陶然とした響きを纏って落ちた呟き。
太陽の髪を持つ風の少年を脳裏を掠め、歓喜と衝動に挟まれているユディの胸を小さく痛めた。
【───神の集いし我らが大地。
四神相応にして、国治まれり。
南に朱雀、北に玄武、東に青龍、西に白虎。
何人たりとも乱すことなかれ。
四方相応に神護りを拝せよ。
御印とし、かの者に大いなる風の加護を与えん。
風は徴(しるし)、鍵となりて国乱れし時、四神を目覚めさせよ。
赤き花戻りし地にて見つからん、炎雀の軌跡
黒き剣より大地を切り裂かれ現るる、堅甲の業
鳴神(なるかみ)の戯れに芽吹く、蒼風の欠片
只管(ひたすら)に続く大道に煌く、双爪の白光
鍵を手にし者、追い求めよ、真実の風を。
真実の風、是即ち国の総てなり──】
止まっていた呼吸を取り戻すまでの空白が部屋を埋めて、脈打つ自身の鼓動をそれぞれが自覚した。
「ずいぶんあっさりと…分かっちまうもんだな…。」
「見つかる時は、そんなものだよ。」
感嘆とともに皮肉を漏らした蓮飛に、いち早く衝撃から立ち直った江が遠い目をして言った。
彩牙と龍景が持っていた石版の欠片を手に旅に出て、それなりの時間が経っていた。
苦労して掻き集めては翻弄され、動揺し、時には彩牙を傷つけ、蓮飛を苦しめた石版の全文が今、はっきりと眼前に広がっている。
それは村を出る前に立ち寄った村長の家の倉に眠る反物だった。
以前は皇居にあったというそれは、白い糸で古代ヤトマ語が織り込まれたものだった。
「この…神護りというのは…。」
「今まで目にしてきておろう?ハイアンにある古代ヤトマの遺跡のことじゃ。
シュカ京、コクトウ京、セイシュン京、ハクシュウ京、それぞれに神殿が設けられておる。」
龍景の疑問に、この織物の持ち主である老人が答えた。
皺枯れた手が床に広げられた古地図をなぞる。
「風で清められていた神殿…。」
蓮飛の呟きに、4人の頭にはシュカ京でレックスと呪術師の少年に襲われた遺跡が閃く。
「てことは、この赤き花から4文が遺跡の場所を表してるって読みは当たってたんだな。」
改めて地図と照らし合わせて感慨深げに呟く陰陽師の脇で、
床に胡坐をかいてじっと古代の伝承文と向き合っていた少年はそっと息を吐いた。
敢えて他の3人が“その単語”に触れていないことに気付いていたから。
自分から踏み出さなくてはならない。
彩牙は乾いてしまっている唇を舐めた。
「風は徴(しるし)、鍵となるって…。つまり俺が鍵ってこと、だよな?神様たちを目覚めさせる鍵。」
隣に座る美丈夫の心配そうな視線に気付き、彩牙はそっと彼の服の裾を掴んだ。
少し目を瞠った彼は、逆に彼の手をとって握った。
温もりが彩牙の揺れる心を支えてくれる。
(大丈夫。やっとここまで来た。前を向ける。自分のすべき事と向き合わなきゃ。)
瞳を閉じて自身に言い聞かせた彩牙の心情を慮ってか、村長は伏せがちだった皺の深い顔を真っ直ぐにこちらに向けた。
「古代ヤトマ人と風牙族は手に手をとって国を治めていた。
ヤトマ人の優れた技術や呪術と風牙族の自然を友とする力。この2つが協力関係にあったから、古代ヤトマ帝国は隆盛を極めた。」
教科書には載っていなかった歴史の裏側。
老人が語る過去は厳然とした重みを持っていて、それが若者たちの肩に圧し掛かる。
「風牙族は精霊に愛された種族だった。彼らは特に風の精霊の寵愛を受け、大地とともに豊かに暮らしていた。
そしていつからか、50年に1人ほどのペースで印を身体に持つ“特別に精霊の加護を受ける者”が現れた。
その者が一族を束ねる族長となることで、ますます風牙族は繁栄した。」
「それが“風の愛児”…。もしかして、この刺青が…?」
「あぁ、その印と伝えられておる。」
古い和綴じの本を開いた村長が指し示したページには、彩牙の肩に刻まれている文様とまったく同じ模様が描かれていた。
震える手できゅっと江の手を握ると、それ以上の力でしっかり握り返された。
「彩牙が風牙族の末裔で、“風の愛児”である事は分かりました。しかし、鍵とは?
どんな役割を、彩牙が担わなければならないのですか?」
江の真摯な眼差しが老人に届く。龍景と蓮飛も固唾を呑んで見つめた。
老人は目を細めて、ゆっくりと重い口を開いた。
「四神に封じられた大いなる力を目覚めさせるための鍵じゃよ。…長い昔話になるが、聞きなさい。」
2つの種族に支えられた古代ヤトマ帝国は栄華を誇り、巨大な大陸の覇者となった。
そんな脅威を隣国が恐れないはずもなく、いつしか戦争の火種が燻るようになる。
ヤトマ帝国は自国を護るため、隠密に前例の無い兵器を作る研究を進めた。
科学と魔術、そして精霊の力を合わせた大量破壊兵器。
そして隣国のハイアンがヤトマ帝国に進軍を開始したちょうど同時期に、それは完成した。
完成してしまった。
もし実用されれば、敵国だけではなく自国すら破滅に導きかねないほどの大きすぎる力だった。
そのあまりにも無慈悲な暴力を恐れた風牙族とヤトマの呪術者の一部が、その兵器を公表せず封印することにした。
国の四方に神を奉り、封印を施した。
ヤトマが暴走しても兵器が使われないよう、封印にはヤトマ呪術と精霊術の両方を組み合わせたものが使われた。
しばらくはなんとか平和が続いていた。
しかし、地下に眠る兵器の噂を聞きつけたハイアンは、西域諸国と同盟を結び、ヤトマを平和を脅かす者と標榜して攻撃を強めた。
ヤトマを滅ぼし、その力を手中に収めれば大陸の覇者となれる。
裏には、そんな思惑があった。
そうしてヤトマは乗っ取られ、東の島に追いやられてしまい、自分達をこれ以上、政治に利用されてはならないと風牙族は歴史の舞台から姿を消したのだ。
「でも、ハイアンはその兵器の封印を解くことは出来なかったんですね?」
老人の昔語りに沈痛な面持ちで耳を傾けていたハイアンの豪族である青年が口を挟んだ。
「そうじゃ。この伝承にもあるよう、封印を解くにはヤトマの呪術と風牙族の鍵が必要じゃ。ハイアンに封印を解く術は無かった。
しかし兵器本体を所有することで、力をつけ大国へと発展した。今では一部の政治家しか知らぬことじゃろう。」
「……そうやって保たれていた均衡を、アイツらが崩そうとしてるって訳か。」
「彩牙は封印の、最後の砦なのですね。」
瞳を伏せていた蓮飛が、その細い顎に指を当てて顔をあげる。
そっと隣に座る彩牙を盗み見た江が、柳眉を神妙に曲げて確認するように尋ねた。
「あぁ、例えヤトマ呪術による四神の封印が破られても、風の精霊が封じておる。」
「俺を攫おうとしたのは…。」
「そのためじゃな。…月仁さまは神殿に邪な気を満たすことで封印を弱めていらっしゃるようだが…、
最終的に力を手に入れるためには鍵…、お主が必ず必要になる。」
老人の言葉に、彩牙は深く頷いた。
彩牙の心は、動揺よりも今まで降り積もっていた謎が解けていって、心がしんと静かになったようだった。
そんな彩牙じっと見ていた蓮飛が、腰掛けていた机からひらりと降りて床上の古地図を指差す。
「なぁ、じいさん。四神の封印ってのは、今どうなってんだ?」
「四神獣のそれぞれの封印は、ヤトマの守人が管理しておる。4つそれぞれの遺跡の近くに住んでおるはずじゃ」
「あっ」
「龍景、急に大声出すなよ。なんだよ?」
「すみません。あの、シュカ京で出会った葎花を覚えていますか?彼女の父はヤトマ人だって…それに、あの不思議な宝石の付いた首飾り。」
「まさか、“炎雀の軌跡”か…!」
「なんじゃ、守人に会ったことがあるんじゃな。これも天の導きかの…。」
驚いた様子で目を丸くした老人は、ふと彩牙に向き直って懐かしむように微笑んだ。
「以前、お主の父がここを訪れたとき言っておったよ。守人を訊ねて回るつもりじゃと。」
「え!父さんたちが?」
「ヤトマが間違いを起こした時、大地を守るのが風の民の務めだと。恐らくは封印を強化し、月仁さまをお止めになるつもりだったのじゃろう。」
彩牙は心に清らかな光る風が吹き抜けた気がした。
青臥が彩牙の膝に擦り寄って、じっと見上げている。
「そっか、うん。」
「彩牙?」
気遣う江の声に、彩牙は暖かな陽射しのような力強い微笑みを向けた。
「俺のすべきこと、分かった気がする!」
「ったく、大それたことを簡単に言ってくれるよなぁ?俺らのリーダーはよ。」
「ふふっ、そんな彩牙だからこそ、蓮飛さんは手を貸したくなるんでしょう?」
両手を頭にやって悪態をつく女顔の陰陽師に、長身の青年剣士はくすくすと穏やかに笑った。
見透かしたような物言いに蓮飛の頬が僅かに染まる。
それを見てさらに緑色の瞳を細めた龍景は、隣に並び歩く彼の顔を覗き込む。
「俺も同じです。彩牙は、本当に強い。」
『俺は、帝には捕まらない。止めてみせるよ。父さんがやろうとしていた事は、きっとそういう事なんだ。』
真っ直ぐに己の使命を受け入れた彩牙の瞳は曇りなく、清い風が吹き抜ける天空の色をしていた。
街外れの砂利道を、2人でのんびり歩きながら思い返す。
港村を離れた一行は、資材調達と神殿の守人を束ねる長を訪ねるためヤトマにある髄一の京、トクヨに来ていた。
彩牙と江は今頃、守人長の元で現在の神殿や守人の情報を得ている頃だろう。
「ところで、どこまで行くんです?」
「もう少しだ。この林を抜ければ。…なんなら先帰ってもいいぞ」
「まさか。俺は貴方の側を二度と離れる気はありませんよ。もうあんな思いは御免です。」
即答された応えに、蓮飛の顔にまた朱が差した。
しばらく2人で歩くと、唐突に開けた林の中にそれはひっそりと建っていた。
「……え?ここは、もしかして…。」
「あぁ、俺の生家だ。」
古い崩れかけた屋敷が息を潜めて佇んでいる。
侵入を禁止するかのように四方を太い縄で囲まれ、白い紙が警告するようにひらひらと舞っている。
あれは注連縄とかいうヤトマの呪術具だったか。
龍景の浅い知識でも、それがあまり良いものでは無いことぐらい理解できる。
「こんな…。」
言葉を失っていると、ふっと蓮飛が自嘲気味に笑って屋敷を見上げた。
懐かしそうな、悲しそうな遠い目。
「馬鹿みたいだよなぁ。異端者を忌みながら、明確には排除されない。忌み嫌って近づかないくせに、恐れて壊すこともしない。」
足元に落ちていたのを拾って投げた蓮飛の小石は、空を切って儚く落ちた。
「どうしてだろうな。民族が違うだけで、同じ人なのに。人は境界線を引きたがる。」
素直にぶつけられる吐露に、龍景はそっと蓮飛の肩を抱いて引き寄せる。
驚いて慌てる蓮飛を後ろから抱き締めて、龍景は囁いた。
「蓮飛さんのご両親は、立派な方たちですね。」
「え?」
「だって、言葉も文化も違うし、どちらの国にも受け入れられない。それでも国境を越えて、愛を貫いたんでしょう。」
だから、貴方が生まれた。
龍景は蓮飛を振り向かせると、微笑んで愛しむように頬を手で包む。
「蓮飛さんの2色の瞳は、ご両親の愛の強さの証ですよ。2人に望まれて生まれてきた証。
…とても、綺麗です。」
そっと両方の目元にキスをして目を開けると、蓮飛の瞳に涙が溢れているのが飛び込んできた。
「わ、泣かないでください!」
わぁわぁと急に慌てふためく龍景をぽかんと見上げたまま、蓮飛が呟く。
「初めてだ。んなコト言われたの…。」
「蓮飛さん。」
たまらなくなって、その華奢な身体を腕の中に閉じ込めてきつくきつく抱き締めた。
それからおもむろに屋敷を見やる。
謂れのない忌避と嫌悪を浴びて、ぼろぼろになった寂しい屋敷。
「ねぇ、蓮飛さん。俺も乗り越えてみせます。そして、ハイアン国を変えてみせます。」
固い決意を帯びた響きに驚いて、蓮飛が顔を上げる。
「五大家の血筋である俺なら、政府の中枢と戦える。
彩牙を見て、思ったんです。俺にも、俺のすべき役目があるんじゃないかって。…あの人のためにも。」
蓮飛を見つめていた視線をそっと胸元に落とす。
首にかけていた紐を引っ張って取り出したのは、いつか見た守り袋だ。
出会った時に龍景が見せた、石版が入っていたもの。
「そーいえば、その守り袋…。どうしてお前がヤトマの石版の欠片を持ってたんだ?
大事な人に貰ったって言ってたけど、誰なんだよ?」
「……………蓮飛さん、それって嫉妬ですか?」
「ばっ…お前、調子乗りすぎだ」
「すみません。」
唐突な言葉に、涙はを吹き飛び耳まで真っ赤になって掴みかかる蓮飛に龍景は苦笑して髪を撫でる。
「これは俺の…姉上から形見として貰ったんです。腹違いの。」
「…え?」
さらりと紡がれた重みのある告白に、蓮飛の動きが止まった。
「姉上の母君は、ヤトマ人だったんですよ。」
先ほど屋敷を眺めていた蓮飛と同じような瞳をして、龍景は切なく微笑んだ。
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