風の民…。
その響きに何故か、違和感を覚えない自分がいた。
それが、真実なのだという事を、深層の自分から思い知らされているようで。
酷く、打ちのめされたような心地だった。
「…顔色が良くないね。」
「…え?そ、そうかな?」
慌てて正面の相手に笑顔を向ける。
しかし、返ってきた表情は苦々しい物だった。
「無理をしなくていいんだよ?彩牙。私には甘えて欲しいな。」
「ありがとう…でも、俺もよく分からないんだ。」
自分は「風の民」と呼ばれた、風牙族の一人。
現在の五大家以前よりハイアンに住んでいた先住民。
彼らはハイアンの自然と共に暮らし、風の精霊に愛され、この地の安寧を守っていた。
…いや、今も密やかに守られているのだ。
愛児と呼ばれる、風の民の中でも特に精霊達の加護を受けた者に。
そして、彼ら…帝達は自分を「愛児」と呼んだ。
急に自分の足下がぐらついてしまったような、そんな感覚だった。この感覚は、きっと自分の身近にいる友人がずっと味わっていたもの。
「普段こんな事、気にしたことなかったのに。急に俺だけ、何か取り残された気になっちゃって…」
僅かに視線を落とすと、正面にいた相手が横へ来た気配がした。
顔を上げると同時にぐいっと引っ張られて、相手の懐に抱き込まれる。
「こ、江…?」
「私は、ありのままの彩牙が好きだよ。いつでも優しくて純粋で、人の幸せを自分の喜びに感じて。私には眩しいくらい、彩牙は素敵なんだから。」
“両想い”になってから、江は以前よりも更に彩牙を賛辞する。しかもそれを照れずに、真剣な表情で言うのだ。
彩牙の心臓としてはたまったものではない。
「だから、私は彩牙が何者だったとしても、この想いは変わらないよ。」
「江…。」
そっと江の手が頬を撫でる。
「彩牙もそうじゃなかったのかな?私が皇子と知って…嫌いになったかい?」
「そんな事…っ!」
「同じ事だよ、彩牙。…私には彩牙の役目を負うことはできないけど…いつだって傍にいる。疲れたら私に寄りかかっても良い。辛いなら愚痴を零しても構わない。そうして、彩牙の拠り所にして欲しい。…それにね?」
「?」
「彩牙のご両親も風の民だった。…ならば、彩牙はどこの何とも分からない者じゃない。ご両親が出会って愛し合い…望まれて生まれた、という事じゃないかな?」
とても強く熱く、そして優しい想いを言葉に乗せる江に、彩牙はそっと身を委ねた。
「ありがと、江。…好き、だよ」
自分の肩を抱く美丈夫は目を見開いた後、蕩かすような微笑みを向け、そっと囁いた。
「…何か、変な術にかけられてるのか?」
そう呟き、頭を抱えてうずくまる蓮飛に、龍景は近寄る。
「蓮飛さん、ひどいですよ。これは現実ですから、一応。…俺も信じられない感じですけど。」
苦笑しながら言い、相手の様子を窺おうと身を屈めたとき、不意に蓮飛がばっと顔を上げた。
「蓮、飛…さん…。」
白磁の頬が、赤く上気している。
二色の瞳は艶やかに濡れて、微かに震える睫に縁取られている。
咲き初めの薔薇色が音を紡ぐ。
あまりの色気に、心臓が大きく跳ねて目眩がしそうだった。
「わ、訳…わっかんねーよ…。いきなり、いきなりそんな…だって俺…。」
「蓮飛さんが男性であることはよく分かってますよ。…それに…俺としてはいきなりじゃないですから。」
「っ…ぅー…。」
戸惑いに二の句が告げられなくなっている蓮飛を、龍景はそっと抱きしめる。途端に蓮飛の身体がこわばる。
「嫌なら、俺を殴ってください。…蓮飛さん。」
最初に彼を抱きしめたのは、洞窟で操られた魔物を退治したあの日の夜。
あの時は知れぬ衝動に突き動かされた。
心の奥底ですでに息づいていた想い。
「…蓮飛さんの居場所になりたいんです。」
「…じゃねーの…」
「えっ?」
「バカじゃねーのか…とっくに…俺の…俺の居場所はここなんだよ…」
ふわり、と強ばっていた蓮飛の身体から力が抜け、そっと寄り添うように龍景に抱きつく。
「…凄い、心臓の音だな。」
「当たり前ですよ…。蓮飛さんにこんな事するなんて慣れてませんから。」
「貴婦人には慣れてるのか?」
「っ、からかわないでくださいっ…俺がこうしたいと思うのは蓮飛さんだけなんですから…。」
「バカ、そこまで言わないでいいっ。」
「蓮飛さん、照れてるんですか…?可愛い…。」
「ばっ…可愛いってどういうことだっ。」
「そのまんまですよ…蓮飛さんも凄くドキドキしてるんですね。」
「!…うるさいっ、黙れっ。」
「ふふ…分かりました。黙りますから。」
「……〜くそ、調子が狂う…。」
翌朝、ヤトマの空は雲一つない快晴だった。
「あっ、来た来た。おはよー。」
「龍景、蓮飛。おはよう。」
「おはようございます。」
「おう。」
彩牙がゆっくりやって来た蓮飛に近づき、首を傾げる。
「蓮飛?いつにも増してテンション低いけど大丈夫?」
「…あぁ、平気。飯食えば何とかなんだろ。…ふぅ…。」
大仰そうに椅子に座る蓮飛を横目で伺い、江は隣席の龍景に耳打ちする。
「辛そうだねぇ、蓮飛。龍景の支え断る辺りが意地っ張りな蓮飛らしいけど。」
「ええ…。って、何で知ってるんですかっ!?」
「おや、ふふふっ、そんなに動揺すると、手の内を読まれるよ?」
「っ、鎌かけたんですね…。」
「人聞きが悪いなぁ。」
くすくすと楽しそうに笑う江に龍景は恥ずかしそうに顔を紅潮させる。
江はぽんぽんと肩を叩くと、
「まぁまぁ。…私は喜んでいるのだよ?…無事龍景の想いが届いて…ね。それに、蓮飛もようやく心の拠り所が出来たわけだし。」
「…はい。」
「ここからが正念場だよ、龍景。…ようやく、敵と戦場であいまみえる。これまでは翻弄されるだけだったけれどね。」
江の表情が真剣なものへと変化する。
「向こうに先手を取られているばかりではなく、こちらから仕掛けていく体制を整えなくてはね。…でも、数日はのんびりヤトマ観光でもしようか。」
「えっ…言った事矛盾していませんか?」
「そんなことはないよ。ヤトマの状況をみるのもいい勉強になるよ?」
にこやかに笑みを浮かべる江。運ばれてきた食事に早速手をつけながら蓮飛が、
「おそらくは石板の手掛かりもこちらに流れてきているだろうからな。遺跡は難しいにしろ、『帝』に近づく為にも、ヤトマでしか探せない情報を探る必要もある。それに、装備も整えたい。…ハイアンじゃ手に入りにくい高価な薬草も安価であるしな。」
「そっか。…ここってハイアンじゃないんだもんな〜…。なんか、軍艦の中にいると忘れちゃうな。」
「建物としちゃ俺の店のようなもんだ。…ただ、整然と並んでいる分、かなり圧巻だがな。」
「俺も話に聞くだけでしたから、実際の町並みを是非見てみたいですね。」
「では、朝食を取ったら町へ出るとしようか。」
ハイアンのものとは少し違う、潮の香りがしそうな風が吹く。
ハイアンのものと変わらない、雲間から覗いた穏やかな日差しが、新たな一日を照らし始めた。
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