第67話「 想急流転 」



しゅるしゅると鳴る衣擦れの音が妙に耳について、頬が火照るのを止められない。
何故、照れるのか。
そのことにまた戸惑い、重い枷のような着物を思うように脱げないでいた。


「あ……、お手伝いしますね?1人じゃ着替えられないなんて、ヤトマの姫君は大変ですね」


微妙な勘違いをしたハイアン出身の青年が、後ろから声をかけてくる。
屋敷から救出された蓮飛は、龍景の手によって彼らが乗ってきたシュトイドの軍船に連れてこられた。
ずっと龍景に抱えられたまま。

まるで本物の姫君のように。

思い出してしまい、羞恥に歯噛みしながら蓮飛は着替えを手伝う彼を盗み見る。
確かに長身で江と比べるとガタイは良い方だが、決して筋骨隆々という訳じゃない。 己の体重とヤトマ衣装を合わせた相当な重量を軽々と持ち上げられるようには見えないのだ。 整った優しげな風貌が、ますますその印象を更に強めている。

(そういや…いつもオレの身の丈ぐらいある大剣振り回してたな、コイツ…)

戦闘中の姿が浮かんで得心する。

(頼りないとばかり、思っていたのに)

年下の彼は冒険者歴も浅い温室育ちのお坊ちゃんで、厳しい生活を強いられてきた蓮飛や 百戦錬磨の江と比較してしまうと、どうしても見劣りする。

しかし、実際にこれまで蓮飛を幾たびも救ってきたのは。

いちばん傍で、守るように剣を振るい。
いちばん傍で、自分のことよりも気遣って。

いつだって、いちばん、傍にいたのは…。

するすると着物を脱ぎ落としていた彼の手が急に止まり、蓮飛は思考の海から浮上する。


「龍景?」

「……あの、もう、あとは、ご自分でできますよね?」


ちらっと見上げると、顔を赤くして困ったような表情をしていた。
──女装を見たら、龍景はどんな反応をするだろうか──
先ほど、何かが引っかかっていたことを思い出す。
だから。


「なんで男同士で、んなこと気にしなきゃなんねーんだよ?」
「!」


残り2枚になっていた着物の襟に手をかけ、するりと肩を抜いて肌をあらわにしてみせた。


「れっ、蓮飛さん…っ!?」

龍景の目が見開かれて固まり、すぐさま耳まで真っ赤に染まると口をぱくぱくさせて慌てて後ろを向いた。

「ど、どうしてって……それは、その…、あ、親しき仲にも礼儀ありというか、そんな感じで大した意味は…!」

(思い出した。シュカで女装した時も、なんか固まってたな)

二枚目が台無しになるくらい、あたふたしている龍景の動揺が否応無しに伝わってくる。
 火が、ついた。


「ばっ、ばーか。なに慌ててんだよ!からかっただけに決まってんだろっ」


急に強烈な羞恥に襲われた蓮飛は、慌てて身なりを整える。


「だって、蓮飛さんが急に…!」
「わ、悪かったって…」
「からかうなんてヒドイです。さっきまで本気で心配してたのに」
「だから悪かったって。ちょっと気になったんだから、仕方ないだろ」
「気になるって…………何がですか?」


柄にもなく喚きつつ着替える蓮飛の言葉に引っかかりを覚えたのか、龍景が振り返る。

「!」

彼の長い鳶色の髪が揺れて、澄んだ翡翠の瞳がまっすぐに蓮飛を写した。 今度は蓮飛が停止する。

頬が熱い。耳が熱い。手が震える。目を逸らせない。動けない。


(なんだこれ。なんだこれ。なんだこれ!)

「蓮飛さん?」


もう何が何だか分からなかった。





軍船を見下ろす岩場の上。
蓮飛に渡された絵本のページを捲りながら、彩牙は珍しく溜息を吐いた。


「こんなこと…、本当に起こせるのか?」

「それがただの御伽噺じゃなく本当に実現できるかは別として、あの黒服の連中がそれを信じて動いているというのは、事実なんじゃないかな。今までの彼らの行動に筋が通る」


隣に座る美貌の銃使いは、落ち着いた様子で頷く。 同意を示すように膝の上でくつろいでいた小さな白竜もひと鳴きした。


「そうだよな…。じゃあ、止めなきゃ。本当だったら困る。ハイアンが失くなっちゃう…かも、だもんな」


現実味の無い話だというのに、言葉にしてみると寒気がした。
妙な予感にざわつく胸を彩牙が無意識に押さえた、その時。 海岸の砂利を踏む、複数の足音。


「誰だ」


彩牙が振り向くよりも先に、牽制する江の声が飛ぶ。


「すみません、異国の方。こちらに入国審査を受けずに停泊している船があるという通報があったもので…」


ヤトマの海岸警備の者たちだった。
焦って助けを求めるように江を見ると、彼は苦笑して彩牙の頭を撫でた。


「申し訳ない、緊急だったので。ハイアン国からの航行許可は受けている船なので安心してくれ。 直ちに審査は受けよう」


江の流麗かつ誠実な振る舞いに、ヤトマ人たちの警戒の糸が解れていくのが見て取れる。
さすがだなぁと感心していると、1人のシュトイド兵がこちらに駆け寄ってくるのが視界に入った。


「フルス皇子!屋敷が…、屋敷から火の手が上がりました…!」


一気にざわめきが走る。


「探索に入っていた兵は無事か」
「はい。全員脱出できました。しかし、中にあった魔方陣やからくりの類は持ち出しようもなく…」


全力で走ってきたらしい若い兵の報告に頷き、労わる江の袖を引く。


「証拠隠滅…かな?」

「たぶん、ね」


彼は柳眉を寄せて渋面を作った。
そのやりとりを聞いていたヤトマ警備隊のリーダーらしき男が青褪めた様子で、口を開く。


「申し訳ありませんが…、詳しい事情を伺わなければなりません。我が村の長の元まで、ご足労願います」











血を固めたような紅い右目と、
陽光のようなオレンジの左目が潤んで、戸惑うように揺れていて。

僅かに開けられた桜色をした小さな唇が、かすかに震えていて。

陶磁のような白く滑らかな肌が、見たことのないくらい赤く上気していた。


(………………目に毒だ。)


龍景は高鳴る鼓動と必死に格闘しつつも、眼前の美しい陰陽師から目が離せなかった。
密かに想いを寄せていた彼のこんな姿、目に毒だと分かってはいても本能がそれを許してくれない。 こんなに無防備で年相応に可愛らしい彼は、出会ってから初めて目にするのではないだろうか。


「蓮飛さん?」

「!?な、なんだ?」


びくり、と小動物のように肩を竦ませる。

あ。
可愛い。


「あの…、服、着てください」

「ぇ、あ、あぁ」


胸元まで露になっている彼をこのまま見ていては、理性が仕事を放棄してしまいそうだった。
彼の様子は相変わらずおかしい。 今まで着替えで恥じらったことなんて無いし、先日、一緒に風呂に入ったときは緊張と羞恥と理性との闘いでガチガチだった自分とは裏腹に、のんびりと温泉を満喫していたのだ。

それなのに。
この態度は。


「あの、俺の思い違いだったら、きっぱり言ってくださいね」

「…なんだよ」

「レックスに何かされたんですか?」


聞かれたことが意外だったのか、蓮飛は幼く首を傾げてそれから横に振った。


「いや、何も……あぁ、仲間に誘われたな」

「えっ」

「バカ。断ったよ」


思わず声を上げると、彼はくすっと笑った。
龍景は心底ほっとしていた。 江やレックスには大口を叩いたが、不安は拭いきれていなかったから。
ふっと蓮飛の表情が和らぐ。


「俺が帰る場所は、ヤトマでもハイアンでもないからな。俺の居場所は……」


それは、未だかつて見たことの無かった色。

怖いくらい綺麗な紅い右目が暖かく溶けて、
他の何でもなく。
他の誰でもなく。

紛れもなく、自分を映していた。


「蓮飛さん」


後日、龍景は少しばかり後悔することになる。


「俺」


舞い上がっていて、物の弾みだなんて。
今まで大切に想いを募らせてきた時間の、割に合わない、と。


「蓮飛さんのことが、好きです」





「悪いけど、火をつけたのは俺たちじゃないです。たぶん“帝”とかいう奴がリーダーの、黒服の集団の仕業だと思います」


彩牙の口から飛び出した“帝”という単語は、小石が水面に波紋を立てるかの如く周囲に動揺の波を作った。 驚きや畏れ、戸惑い、不安…そういった不穏な感情が入り混じっていた。

コン!

硬質な木の乾いた音が小気味よく響いて、ヤトマ人たちは口を噤んだ。杖を鳴らした老人を彩牙はまっすぐ見つめている。
老人は重たそうな口をゆっくり開いた。


「…いつか、こうなるような気がしていたんじゃ…」


嘆息にも似た、呟きだった。


「失礼ですが、村長。あなたは“帝”をご存知だったのでは?あの者たちは何者なのです」

「帝は…、月仁(ツキヒト)親王は、古代ヤトマ王朝の皇族最後の生き残りにございます。先帝と皇后さま亡き後、我が一族が隠し育てておりました」

「じゃあ、帝は本当にヤトマ国の王!?」

「正確には、ヤトマが国として認められれば、国主となるべき血筋の者…ということだね」


彩牙の驚声を言い直した江に、老人は神妙に頷いた。


「ヤトマの皇族が生き残っていると知れれば、ハイアンに“消されて”しまうのは分かっていた。だからあの屋敷で隠れ暮らしておられたんじゃ」

「消すだなんて…そんな…」


物騒な物言いに彩牙が顔を曇らせると、老人の横に控えていた若者が立ち上がる。


「善人ぶるなよ!ハイアン人が!2年前、陛下を暗殺したのはてめぇらだろ!」

「これ、控えろ!」


いきり立つ若者を老人が杖で制止する。
以前から疑いはあった。 だが改めて自分の生まれ育った国が加害者だったという事実を突きつけられると、胸が締めつけられるようだった。
しかし、それも束の間。


「今、この者たちを責めたところで何も変わらん。それに、この少年はハイアン人ではないぞ」


何を言われたのか、わからなった。


「どういうことだ」


江の声に珍しく余裕が無い。


「少年よ、名は何と申すのじゃ?」

「晶 彩牙…です」

「晶……やはり“風の民”じゃな」


老人が語る単語に、ざわりと鳥肌が立つ。無意識に左肩を掴んでいた。 そこには渦巻く風のような刺青がある。古代遺跡にも刻まれていた文様だ。
キュィイと心配そうに青臥が鳴いて擦り寄ってくる。


「子竜を連れておったからすぐにピンときたぞい。…わしは数年前、お前さんと同じ刺青をした男と会ったことがある。供の女と2人旅をしとった」

「2人旅…」

「若い夫婦じゃった。名は、晶 雄牙(ユウガ)と晶 風歌(フウカ)」


懐かしすぎる名前だった。

「父さん、と、母さん……?」




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by穂高 2010/02/25