過去は、優しく、苦しい。
思い出したくないものと、忘れたくないものは、常に表裏一体であったから。
「おばあさま…また、鬼と呼ばれました。石も投げられて…。」
「…左様でしたか。こちらへおいでなさい、蓮飛。」
そばに寄り、おばあさまの膝に頭を預ける。
ふわり、と沈香の香りがする。
つい、言葉が尖る。
「血の眼…鬼の眼。こんな瞳、いらないのに。俺は…どうして生まれたんだ。」
「…蓮飛、お前に薬学、陰陽道を始めとした種々の学を学ばせたのは、
お前がいつか、それを必要とする…と、星が知らせているのです。」
「星の定めだって、言いたいのですか。」
「平たく言えば。私はいつまでもお前の傍にはいられない。いつまでもお前を守ってはやれない。」
両親が死んでからただ一人、おばあさまだけが、味方だった。
ヤトマは、血を忌む。
それは、血がケガレと言うものだからだ。
右瞳の色で忌避はされても、殺されはしない、不思議な国。
それでも、苦痛な生活には変わりなく、「赤い瞳」が異端ではないハイアンへ渡った。
だが、ここは、「赤い瞳」が異端でなくとも、「ヤトマ人」が異端だったのだ。
思ったよりも早く、おばあさまとの別れが来たのはそのせいだ。
慣れぬ環境と云われ無き中傷で弱った身体に、病が重なり…。
だから、俺は一人きりでも生きていけるように、強くならなきゃいけない。
頼るものなんて、もはやない。
それ、なのに。
誰かが、俺を呼んでいる。
『さん』づけで呼ぶなんて、思い当たるのは一人だ。
馬鹿だな、そんな必死になって俺を呼ぶなんて。
お節介なんだよ、お前は。
大騒ぎしなくたって…
「…っ!!」
そうだ、過去の幻影に惑わされている場合じゃない。
ここは…おそらく、ヤトマなのだろう。
ハイアンにはない建築様式の部屋だ。
懐かしさと痛みを覚える空気。
「ようやくお目覚めか。まさか移動のショックで気を失うとはな。」
軽い口調が戸口から聞こえる。重怠い身体を無理矢理半身起こして身構える。
それに一切動じることなく、肩を竦めるのはレックスだ。
「やめとけよ、今俺らに喧嘩を売るのが得策じゃないって、アンタも分かるはずだ。」
「っ…。」
「アンタは風の愛児よりずっと勝ち気だな。」
レックスは愉快そうな笑みを浮かべて蓮飛に近寄る。
「悪くない。俺の好みだ。」
「なっ…!」
軽く屈んだレックスは、その唇を蓮飛の耳元へ触れさせる。
動揺した蓮飛の拳は相手には当たらなかった。
「俺はアンタに興味があるんだ。
…ただ、風の愛児じゃないアンタを連れ帰った俺は、帝(みかど)のご不興を買ったが。」
肩を竦め何ともないような様子で言った後、にやりと含みのある笑みを浮かべる。
「一つ利益としたら、お人好しのお前らは連れ去られたアンタを放っておかないだろうってところだな。」
そう言われて、蓮飛ははっとする。
確かに、連れ去られた蓮飛を見捨ておくなど彩牙たちには出来ないだろう。
「俺なんか、捨て置けばいいのに…。」
ぼそっと言った後、脳裏にふっと思い浮かぶ、面影。
『貴方を待っていました。』
『どうしてそんなに自分を大切になさらないんですか。』
『蓮飛さんがご無事でよかったです。』
(…あいつの為にも、何とかしなくちゃな…。)
そう考えている自分の変化に、蓮飛はまだ気づいていないようだ。
息せき切って戻ってきた龍景の口からもたらされた、
『蓮飛誘拐』
の事実。
聞いた二人はまず絶句し、沈痛な面持ちをする。
「まさか、蓮飛が…。狙いを彩牙から変えたのかい?」
「…いえ、これは俺の推測ですけど、あいつは蓮飛さんを仲間にしたがっていたんです。
やつらの狙いは古代ヤトマの復興、なのだそうです。」
「だから、蓮飛を連れ去ったのか!?」
「成る程。そういう事なのか。…蓮飛は仲間に組み入れたいヤトマの同志であり、
同時に彩牙を誘き出す人質として有効な人材だ。」
江が納得して言うが、彩牙はそんなにも淡々と受け入れられない。
半分は自分の所為で蓮飛は連れ去られたのだから。
彩牙は決意を込め、顔を上げ、
「助けに行こう。」
「もちろん、そのつもりです。蓮飛さんを放ってはおけない。」
守れなかった悔しさにぐっと拳を握りながら、龍景が言う。
江も頷いて同意を示した、その時だった。
「すみません、お客様、お待ち下さいっ!」
焦ったような宿の従業員の声がする。駆け足はどんどんこちらへと向かってくる。
「何があったんだろう…?」
「柳江殿、こちらにいらっしゃるのでしょうっ!?」
その名を聞いた途端、江がすくっと立ち上がる。
ドアを開けると、金髪碧眼の男性がいた。
「…どうして来たのだ。直に会いに来るなと言付けてあったはずだが。」
「…江…?」
普段とは少し違う江の様子に、彩牙が揺れた声で呼ぶ。
男性は明らかに好意的ではない視線で彩牙と龍景を見て、江に視線を戻す。
「直に会いに来なくては、知らせを受け取ろうともしなかったではないですか。」
「私は今、そちらとは関わりを無くしてあるはずだろう。」
「そうも参りません。事情が変わったのです。ヤトマに潜入させていたスパイから、
事態の緊迫を伝える知らせが入りました。」
男性は懐から紙を取り出し、江に渡す。
「…私と共に来ていただきます。宜しいですね。」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ、江は俺たちの仲間なんだ。
いきなりそんなこと言って江を連れていくなよ!」
慌てて彩牙が二人の間に割って入る。
男性は一瞬驚いたような顔をしてから、苦笑交じりに、
「仲間…ですか。」
「…リヒャルト!余分な事を言うな。」
「余分な事なのですか?事実でしょう。」
「江!何なんだよ、ちゃんと説明してくれよ。」
「…彩牙。」
彩牙はじっと目線を向ける。江は困ったように視線を外してから、意を決したように、
「リヒャルト。入るといい。彩牙、龍景…こんなときですまないが、少し聞いてくれるかい?」
彩牙と龍景の前に、江と、リヒャルトと呼ばれた男性が座る。
妙な緊張感が漂う中、口を開いたのは江だった。
「私の出自は、ハイアンではないんだよ。…西域の国の一つ、シュトイドだ。」
シュトイドは西域の中でも、様々な地形を持つ風光明媚かつ作物や水も豊かな国で、
政治的には穏健派といわれる。
「シュトイド…。」
小さく、彩牙は江の言った国名を繰り返す。
「…本名は、フルス・ヴァイデン。」
名前を聞いた龍景が、何か思い当ったようにふっと顔を上げる。
「ヴァイデン…?まさか、江さん。」
「フルス様は我らシュトイドの、正式な皇子にあらせられます。」
衝撃の一言ではあったが、納得もしてしまう。
そう言われると、江は確かに西域の事についても明るい。
冒険者というだけでは得られない知識もあったのかもしれない。
その上、一つ一つの所作をよく見れば、ハイアンの名家である龍景と同等、もしくは
それ以上に上品で気品ある動作を卒なくこなしていた。
「シュトイドの皇子は、確かルフト殿では?」
「ルフトは私の兄だよ。…私は社交界に出る寸前で国を出て、冒険者になったからね。
国内では私を知っている者はいても、姿を見たものはいないし、
国外となれば第二皇子がいることすら知られていないだろうね。」
「そうだったんですか…。」
「今、ヤトマで不穏分子が動いてる事もあり、我が国も監視体制をとっていましたが、
先日、急に活発化しているということもあり、フルス様に協力を依頼したく参ったのです。」
不穏分子とは、彩牙たちの前に現れ、彩牙を誘拐しようとしたり、
まさに今蓮飛を連れ去っている“奴ら”の事であった。
蓮飛の…友人の危機に、黙っていられる彩牙ではない。
しかし、彩牙は、衝撃から立ち直れずにいた。
江が、西域の国の皇子。
好きになった人は、驚くほどに身分の高い、本来自分とは出会うはずもない人物だったのだ。
その事を、知らなかったことがショックだった。
江の愛情は、存分に分かっている。
遊びなどではない、本当に自分を愛していることは、身体でも心でも、全てで受け止めていた。
そして、自分も…
「…江…。」
「…彩牙。」
江が遠く感じられて仕方ない。
自分の事よりも、蓮飛の事を考えなければと心のどこかで思っているのに、
彩牙は、じっと江を見つめていた。
|