第63話「潮風揺心」



さらりと揺れる濡れたままの黒髪にそっとタオルを乗せると、少し驚いたように橙と真紅の二色の瞳が素早くこちらを見上げた。


「暖房が効いてるからって濡れたままでは、風邪を引きますよ」


なんていうのは建て前で、本音は彼の髪が濡れた様があまりにも艶やかで、目に毒というのが本音。
そんな卑しい下心は、柔らかな苦笑で隠した。


「あの子の名前を考えてるんですか?」

「あぁ、せっかくだから強そうな名前にしてやりたいし」

「…オスなんですか?」

「たぶんな。…勘だ」


神妙な顔をして思案する彼に、少しほっとして笑みを零す。
大樹の揺りかごでの彼と江の意味深なやりとりが気になっていたからだ。踏み込 んで尋ねていいものか、龍景は迷ってた。

(あんなに彩牙に熱を上げている江さんに嫉妬するなんて、どうかしている!)

首を振って見やると、無邪気に竜とじゃれあう彩牙に、江が抱きついているところだった。


「なぁなぁ、この子の首輪になんか書いてあるんだけど」

「ん?ヤトマ語かい?蓮飛、ちょっと来て」


江の手招きに応じて覗き込んだ蓮飛は、肩を落とした。


「石版とは関係なさそうだな」

「なんて書いてあるんだ?」

「いにしえ、の…契、約に、もとづき、真の姿…を…もって、風のつかい…とす…」

「“古の契約に基づき、真の姿を以って、風の遣いとす”?……っ、うわ!」


彩牙が反復した途端、彼の左肩に刻まれている刺青が光りを宿して竜も輝きを帯びた。


「キュゥイィ!」


嬉しそうに一鳴きして窓から飛び出した子竜は、みるみる内に大きくなり、文献の挿絵に出て来るような立派な竜の姿になった。 呆気にとられていた彩牙が、窓枠を乗り越えて竜に近づく。


「彩牙、今の光は?近づいて平気?」

「大丈夫〜」


心配する江に微笑んで手を振る彼の襟首を、竜がぱくりと咥えた。


「うわっ!わっ、ちょっ…!」

「彩牙!」


そのまま竜はヒョイッと彩牙を背に乗せて満足げに鳴いた。思わず飛び出した江が、ほっと胸を撫で下ろす。


「すごい、ふかふかだ!お前、大きくなれたんだな〜」


竜のたてがみの感触を楽しんだ彩牙がそっと飛び降りると、竜は彩牙の耳元に口を寄せる。


「蓮飛さん、もしかして彩牙とあの子は、会話できるんじゃ…?」

「かもな。…アイツ、余計な気ぃ使いやがって」

「仕方ありませんよ」


隣で憮然と腕を組む蓮飛の顔を覗き込んで微笑むと、彼は少し頬を赤らめて不思議そうな顔をする。


「江さんがあの様子じゃ…。心配かけたくないんだと思いますよ」


江は彩牙と両想いになって以来、心配性が強くなった。 ほんの少し彩牙が怪我をしただけでも眉を寄せる。


「そういうことか…。ったく、ハイアン中で浮き名を流してた奴がすごい変わりようだよな〜」

「そうですね」


軽口を叩きつつも柔らかく笑う蓮飛につられて、龍景もくすりと笑った。


「なぁー!コイツが俺たちを乗せて、セイシュンまで連れてってくれるってー!」

「えっ?」


彩牙の嬉々とした声に、また三人は目を丸くすることになった。






「青臥(せいが)、ありがとうな」


彩牙が声をかけると、再び小さくなった竜は満足げに羽をばたつかせた。

4人はハイアンの西にある大都、セイシュン京の外れに降り立った。 セイシュンは交易が盛んな港街で、ヤトマに行く定期船も出ており、様々な人種が行き交う。 その郊外に降り立った4人は、まず宿に荷物を下ろしてから調査に向かうことにした。


「彩牙。俺は、ちょっと別行動させてもらうぞ」

「え?いいけど…」


首をポキポキ鳴らして肩を回していた蓮飛の思いがけない言葉に、彩牙は目を丸くする。


「野暮用だ。気にするな、この街には少し馴染みがあるんだ」

「じゃあ、俺も…!」

「龍景」

「江さん…?」


資材の調達や、聞き込み調査のために別行動するのは何も珍しいことではない。
でも、どこかぎこちなさそうな蓮飛の様子が気にかかる。 不安が過ぎる龍景を、江が止めた。
江と蓮飛の間に意味ありげな視線が行き交う。それがますます龍景の不安を煽った。


「龍景、心配すんな。夕食までには戻る」

「………わかりました」


ひらひらと手を振って蓮飛が出て行ってしまうと、江が肩に手を置いた。


「龍景、ちょっといいかな?」








そっと墓前に花を添える。
潮風が丘の上に吹き渡り、蓮飛の艶やかな髪をさらさらと揺らしている。


「おばあさま、俺は…間違っていますか?」


小さな呟きは、揺らいで消えるはずだった。


「間違ってるね。アンタにはヤトマの血が流れてる。」


はっとして振り向くと、あの赤髪の男が悠然と背後に立っていた。 慌てて呪符を構えようとするのを、男は制した。


「そういきり立つなよ。今日はアンタに用があるだけだ」

「俺に…?お前らの狙いは彩牙じゃないのか」

「あぁ、俺たちのボスが求めてるのは、風の愛児だな」


長い髪が風に弄ばれるのをうざったそうにかき上げながら、レックスは一歩一歩近づいてくる。 確かに戦闘する気は無さそうだが、油断はできなかった。


「どうして彩牙が必要になる?アイツの力は何なんだ」

「…周防蓮飛。アンタはヤトマの現状を知るべきだ」


蓮飛の問いかけを無視した応えに、眉を寄せる。
レックスとの距離は徐々に詰まるのに、身体が動かない。 背後の岸壁で、海風が唸っている。


「ヤトマがどれだけ虐げられてきたか。歴史の影に葬り去られた罪を、暴かなくていいのか? 謀略を巡らし甘い汁を吸い続けるハイアンの政治家たちが、憎くはないのか」


畳み掛けてくるレックスの声に、心が乱れる。
憎くないと言えば嘘になる。蓮飛の中には、祖母を虐げたハイアンを憎む心がある。
ふと先日の温泉での、龍景の顔を思い出す。

(そうだ、俺にはアイツらが…)

しかし、一瞬の迷いが、いけなかった。








花束を手に、龍景は足早に丘の上の霊園に向かっていた。
江から聞いた話を反芻しながら。

混血である蓮飛はヤトマでも迫害を受け、祖母と共にハイアンに渡ってきたこと。
祖母と共に、しばらくこのセイシュン京で暮らしていたこと。
唯一自分を守ってくれた祖母を失ったこと。
ハイアンでの差別が無ければ、祖母は助かったかもしれないこと。

(だから蓮飛さんはいつもあんな風に…!)

人を近づけず、
でも、どこか寂しげで、

(それは…)

蓮飛の居場所が、どこにもなかったから。

(俺が…俺だけは、貴方のそばにいるから。貴方の居場所になるから)

溢れ出す想いと嫌な胸騒ぎに、龍景は走り出す。 霊園が見えたとき、赤い光が前方で瞬いた。


「蓮飛さん!?」


見覚えのある赤髪がこちらを振り向き、にやりと笑みを浮かべた。


「待て!!」


レックスと蓮飛は赤い光に包まれて消えてしまった。
蓮飛の身につけていた陰陽紋のアクセサリーを拾い上げる。


「蓮飛さんが…攫われた…?」


龍景は、血の気が引く音を初めて聞いた。





----Next----Back----



by穂高 2009/08/25