「あれ?龍景は?」
双剣の手入れを終えて部屋を覗くと、怪我人の姿はベッドの上になく、彩牙は目を丸くした。
そんな表情にくすりと笑みを零し、江は読んでいた本を閉じる。
「蓮飛が露天風呂に連れて行ったよ。なんでもここの湯は、打ち身や擦り傷に効くんだとか」。
「へぇ〜。…2人きりにして大丈夫かな?」
とことこ近づいてくる彩牙に、江はおもむろに手を伸ばし、その小柄な体躯を腕の中に納めてしまった。
「わ、いきなりなんだよっ」
「ん?彩牙が心配している事を、実践してみただけだよ」
「はい?」
「龍景が蓮飛を襲わないか心配しているんでしょ」
「襲…っ!ちがーう!」
真っ赤になって振り返ると、江はにこにことどこ吹く風。
「大丈夫だよ。蓮飛は感情で先走ってしまうタイプではないし、龍景もああ見えて落ち着いているから…」
「そうだよな…2人とも俺よりずっと大人だし」
彩牙はふむ、と口元に手を当てて小首を傾げる。その様に切れ長の目を細め、江は彼の髪に唇を寄せた。
「私は…彩牙を子供だと思ったことは無いけれど」
目を丸くする彩牙の髪を、江の長い指が穏やかに滑る。
「そんなに意外?」
「子供扱いされる方が多いから…江みたいな、きちんと自立してる立派な大人に認められると嬉しいな」
ほんのり頬を色づかせる彩牙に、彼は苦笑した。
「私は、そんなに立派ではないよ」
「え?」
「立派な大人だったら…故郷から逃げ出したりはしないからね」
自嘲めいた呟きに眉を寄せ見上げる彩牙に、彼はただただ苦笑するのみだった。
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湯煙の中、まったりとたゆたう水音が龍景の耳を心地良く撫でていく。
このまま眠ってしまいたい欲求とは裏腹に、胸の鼓動がうるさく全身の筋肉に力を入れさせていた。
特に、背中に。
「傷にしみるか?」
囁くように問われ、頬がさらに火照るのを止められない。
「少し。でも大丈夫ですよ。」
振り返って微笑んでみせると、双色の瞳が潤みを帯びて細められた。
「お前も彩牙と一緒だな。人を庇って無茶ばかりしやがって」
「蓮飛さんに、言われたくありませんね〜?」
言葉とは裏腹にそっと湯をかける蓮飛。その心配を振り払いたくて、龍景は片眉をつりあげてみせた。
彼は、少し笑った。 再び穏やかな沈黙がおり、龍景は喉の奥に詰まっていた音を解放させてやることにした。
触れがたい。 しかし、知りたい。
彼の気持ちを。
たとえ、それが自分の望むものじゃなかったとしても。
「蓮飛さんは、あの人達に…ヤトマ側につきたいと、思っていますか?」
目を軽く見開いた彼を見て、失敗したと思った。
もしそうだとしたら、どうするのだ?
自分は、何があっても彼の味方でいたいと思う。ハイアンの政治に関わる出自とはいえ、それだけでハイアン側につくつもりはない。
でも、レックスの行いを許せはしない。魔物を暴走させたり、騒ぎに民を巻き込んだり…魔の力を使って国を乱すのは、罪なき人々が傷つくのは。
「わからない…」
長い沈黙の後の呟きは、か細かった。真紅の瞳が戸惑いに揺れている。
「ヤトマの真実は、おそらくアイツの言う通りだろう。だとしたら、俺はヤトマの陰陽師として、真実を白日の元にさらしたい気持ちもある」
ぽつぽつと単調に、形の良い艶やかな唇が音を紡ぐ。しかしそれが震えているのに気づき、龍景ははっとした。
蓮飛の正直な胸の内を、初めて聞けている。不謹慎ながら、それが嬉しくてたまらない。と同時に、彼の本心に戸惑い、やはりと眉を寄せてしまう。
「でも」
続いた言葉と、仄かに力強く煌めいた真紅の瞳。
それらに龍景の胸は締め付けられる。
「アイツらのやってることは正しくない。魔の力を借りて世界を転覆させたって…その先には争いが待ってる。戦争だ」
淡々と彼は事実を受け止めるのを表すように、言葉を紡ぐ。
まるで自分に言い聞かせているかのように。
「ヤトマ差別は無くしたい。戦争も避けたい。綺麗事だってわかっちゃいるが…。俺は…何をすべきか、まだわからない…」
ふっと自嘲気味に彼は息をついた。
「人を導くのが陰陽師だっつーのに、この様じゃ仕様もねぇな」
「いえ。蓮飛さんは、それでいいと思います」
ぽちゃんと雫の落下音。 真紅に龍景の顔が映った。
「蓮飛さんは、どちらの視点も持てる、中間に立てる貴重な存在です。それ故に苦しいこともあるとお察ししますが…」
誰にも頼らず、前を見据えて立ち続ける彼。その姿は、美しくもどこか儚くて、龍景の胸は軋む。
でも、だからこそ。それに耐えてでも。
「でも、そんな蓮飛さんだからこそ、できることがあるはずです。だから…蓮飛さんは、それでいいと思います」
自分は彼の側で支えていたい。
龍景の強い瞳が、蓮飛をしっかり捉えている。
「俺が、側に居ますから」
雫の落ちる音が響く。
数滴後、蓮飛の形の良い唇が緩んだ。堅い蕾が、春の予感に綻ぶように。
「本当に…お前は世話焼きだな」
「えっ、ぁ、いや、そんなつもりじゃ…うわっ!」
「!」
秘めた想いを悟られたかと思い、慌てて振り返るとバランスを崩して彼に倒れ込んでしまった。
唇が触れてしまいそうな程近くに、タオルを巻いただけの彼の顔がある。
自分の髪から落ちた水滴が、彼の朱に染まった頬に落ちる。
「ぁ…す、すみませ…!」
「ぷ…あははははは!お前、慌てすぎ…っ、すげーマヌケ面…!」
肩を震わせて笑う彼に、龍景は羞恥と混乱でますます赤くなる。ひとしきり笑った後、彼は目尻に溜まった涙を指で拭いながら言った。
「…ありがとな、龍景」
「!」
火照った耳に届いたのは、小さな感謝と、初めて呼ばれた名前だった。
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