雪原の中を2つのソリは順調に進み、彩牙たちはコクトウ京まであと少し、という峠に差し掛かっていた。
「うーーー寒ィ…鼻いてぇ…」
壁邑(へきゆう)で調達した防寒用の帽子で顔半分をすっぽりと覆い隠した蓮飛は、鼻の頭を赤くさせて凍えている。
平素よりいくらか幼く見え、龍景はついつい後ろを振り返る回数が増えていた。
「もう少しの辛抱ですよ。そうだ、俺にしっかり捕まっていてください。少しは温かいはずですから」
遠慮がちに擦り寄る気配。
ときめく胸の内を隠しつつ、龍景は己の言葉に苦笑する。
いったい何時から、江のような台詞を言えるほど、図太くなったのだろう?
恋は人を変える?
なんて。
2人のソリを引く犬たちの息が白く煙る向こうに、江と彩牙の乗ったソリが走っている。
こんなに険しい道程は初めてのため、彩牙はすっかり大人しくなり、江の腕の中でしっかり手綱を握り締めている。時折、犬たちを気遣って声をかけているようだ。
「もう少しで峠の頂上だよ。下りに入ってしまえば、コクトウ京が見えてくる。…降り始めてしまったね。急ごう」
「はい!」
振り返った江とともに、雪がちらつき始めた空を見上げた。
少し気が緩んでいたのかもしれない。
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突然、静寂は破られた。
崖の上から何かが滑り落ちてくるような激しい音と、獣の雄叫びと、鮮烈な赤。
見覚えのある紅。
「あんたは…!」
シュカ京の祭りで、彩牙を攫おうとした紅髪の男だった。
彼はこちらを認めると小さく舌打ちをし、眼前の魔物に向き直った。
濁った眼を血走らせた巨大な狼はいきり立っており、今にも彼に襲い掛かろうとしている。
そう現状を把握した直後、「助けよう!」という声が飛び込んできて、我が耳を疑った。
見ると、彩牙はすでに剣を構えている。
「でも、彩牙…」
「困ってる人は助けなきゃ!」
にっこりと屈託無く笑う彼に、厳しい目をしていた江まで絆された。
でも3人ともどこかほっとしたような顔で、武器をゆっくりと構える。
「礼なんか出ないぞ」
駆け寄る彩牙にレックスは警告するように言ったが、彩牙はまるで気にしなかった。
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獣の体に傷がつき、そろそろ決着がつくだろうと思った頃。
「彩牙、江!そこから動くな!」
突然、何かを察知したらしい蓮飛の声が響き。
その余韻を待たぬ間に、地面が揺れ、雷鳴のような何かを引き裂く轟音が耳を塞いだ。
「雪崩!?」
「うわぁあああ…っ!」
「蓮飛さん…!!」
白の波に呑まれる直前、龍景は愛しい人を抱きかかえるので精一杯だった。
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ぴちゃんと微かな水の音。
それが雫の落ちる音だと、ゆるりと浮上する意識がかろうじて把握する。
次に感じたのは、背中に当たるごつごつとした冷たさと、手の上のぬくもり。
「よかった…気が付いたな」
うっすらと瞼を開けた先に居たのは、泣き出す手前のような、ほっと胸を撫で下ろしたような愛しい彼の人。
「蓮飛さん…ご無事でしたか。お怪我は…?」
雪崩に巻き込まれて、おそらく崖下に落ちたのだろうということを必死に思い出した。
すると蓮飛は眉を吊り上げて、
「ねぇよ、馬鹿。お前のおかげでな」
そう言って、それとは裏腹に龍景の肩を優しく撫でる。そこは布を裂いて包帯代わりにし、手当てが施されていた。
どうやら彼を庇って身体を打ち付けてしまったらしい。痛みはあるが、骨に以上は無さそうだ。
「蓮飛さんがご無事でよかったです」
彼を守れたことが誇らしくて笑うと、陶磁器のような蓮飛の頬がうっすらと色づいた。
「ハッ、“風の愛し児”といい、どいつもこいつもお前らは甘いな」
唐突に割り込んだ第三者の声に驚いて首を巡らすと、自分が横たえられている洞窟の少し奥に紅髪が見えた。
「な!?どうして…」
「それは、そこのキレイな顔した兄ちゃんに聞くんだな」
目を丸くしたまま蓮飛を見上げると、憮然とした顔。
「彩牙なら、きっと助けるだろ…」
それは、己の行動に戸惑っているようでもあった。
ゆっくり身体を起こして、ひやりとする岩肌に背を預けてみる。やっと見えたレックスの全身は、包帯で覆われていた。
「…そうですね。彩牙なら、きっとこうすると思います。むしろこうしなければ、きっと俺たちを叱りますよ」
そっと彼の手を握って冗談めかして微笑むと、黒髪の向こうに透けて見える赤い瞳が少し和らいだように見えた。
「なぁ、黒髪の兄ちゃん。アンタ、ヤトマ人だよな?」
「ヤトマとハイアンのハーフだ。それがどうした」
助けが来るまで大人しくしていることにしてから数分後、おもむろにレックスが口を開いた。
火を起こしていた蓮飛は、手を止めて睨みつける。
「……もし、この大陸に“古代ヤトマの力”が封印されて眠っているとしたら……どうする?」
突拍子も無い話だ。蓮飛の声もいっそう険しくなる。
「お前らがいた古代遺跡や、彩牙と何か関係あんのか?」
男は蓮飛の問いには答えずに、何かを探るように真摯な眼で俺たちを見据える。
「…その“力”で、ヤトマ帝国を復活させたいとは思わないか?」
言葉を失った。
「1000年以上前の話だぞ…」
やっと衝撃から立ち直った蓮飛が、そっと零した。信じられないと、声が戦慄いている。
レックスの鋭い瞳は、蓮飛をじっと見つめるばかり。
「ちょっと待ってください。もし……仮にその話が本当だとして…どうしてヤトマ帝国を復活させたいだなんて思うのですか?
古代大戦のとき、それまで地方の小さな自治領だったハイアンは、西域諸国と手を結んでヤトマ帝国を倒した。
それはヤトマ帝国が、民衆を苦しめるような独裁政治をしていた結果でしょう。ヤトマ帝国は重い税を民に課せ、さらに西域諸国の領土を奪おうとしていた…」
「それが、作られた歴史だとしたら?」
「!」
ハイアン人なら誰もが初等学舎で習う教科書の中身。
それがすべて、作り物だとしたら…それが意味するのは…。
「アンタはヤトマの術師だろ?」
「陰陽師だ」
「あーそう言うんだったな。その陰陽師なら、古代の歴史にも詳しいだろ?ヤトマ帝国の皇族が独裁をしていたなんて記録は、本当は何処にも無いだろう」
今まで基盤となっていた知識が崩れ落ちていきそうで混乱し、縋る気持ちで蓮飛を見る。
彼は薄紅色の唇を噛み、双色の瞳を揺らしていた。
「すべてはハイアンの策略。正確には、今のハイアンを統治する五大家の先祖の策略だな」
ずきりと突き刺すような胸の痛みに、龍景は思わず拳をきつく握り締めた。
その包帯の巻かれた手に滲むのは、紛うことなく五大家の1つ、孫家の血。
「古代大戦の時代、天災が続き、どこの国も貧困に苦しんでいた。少しでも豊かな土地を求めて、戦争は頻発していた。
だから豊かなヤトマ帝国は滅ぼされ、奪われた。ヤトマに非があったわけじゃない。
…アンタは、自分の先祖が犯した罪も、血塗られた歴史の真実も、何も知らずに、のうのうとお坊ちゃんやってた訳だ。」
深紅の瞳が燃えるように光り、龍景を射抜く。
それを庇うかのように、蓮飛が立ち上がった。
「そうだとしても!…今、そんな歴史の闇を掘り返してどうする?この国は今、平和だ。貧しい民はいるが、それなりにうまく統治されている。」
「本当にそうか?」
落ち着きを取り戻した蓮飛に、レックスの声は冷ややかに降り注ぐ。
「ヤトマの血が流れているお前は、何の差別も受けずに生きてこれたか?ヤトマがハイアンからの独立を未だに認められないのは?
豊かな大陸に住めるヤトマ人が少ないのは何故だ?多くのヤトマ人は東の小さな島に閉じ込められ、
ハイアン人より重い税を課せられているよな?」
「!!」
「これが平等だと言えるか?もともと戦争を吹っかけてきたのはそちらだ。
ハイアンはその罪を巧みに偽り、すべてヤトマに押し付けた。ヤトマは謀られたんだ」
静かに横たわっているはずの、レックスから深い怒りが滲み出る。
その表情と、西域人らしい彼の白い肌や赤い髪、服装に違和感を覚えた龍景は眉を顰める。
「どうして貴方が、そこまでヤトマの肩を持つのです…」
レックスは我に返ったように目を丸くし、苦々しく舌打ちした。
しゃべりすぎたとでもいうように。
「俺はただ…偽られた歴史に虐げられてきた人間がいる…そのことが許せないだけだ」
数刻後、複数の足音と彩牙たちと思しき声が聞こえた。
龍景と蓮飛は、レックスをそのままにして外に出た。あんな話を聞かされた後では、捕らえる気にはなれなかったからだ。
「蓮飛さん…」
自分に肩を貸しながら歩く彼を見下ろせば、普段は隠されている左の紅い瞳が暗い戸惑いに揺れていた。
もし、レックスの言葉が真実であるとするならば…。
龍景はたまらなくなって、血が滲む右手で蓮飛の肩を強く抱いた。
いっそう強く吹く風の向こう、彩牙たちの姿が見えた。
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