薄暗い部屋の御簾の向こうで、影がわずかに揺れた。
さらさらと金の髪を鳴らした少年は、僅かに眉をひそめる。
「帝、まだ御休みになられてなかったのですか?」
「ユディか」
許しの合図に、ユディはそっと御簾の中に小柄な体を滑り込ませた。
畳の上に散乱しているのは古ぼけたヤトマの書物や巻物、布に、石。そして、淡く光る水鏡。
「レックスは仕損じたそうだな」
「…申し訳ありません。」
帝、と呼ばれた雪色の長い髪をした男は、言葉とは裏腹に穏やかな物腰で水鏡を眺めている。
そこに映っているのは、無邪気に仲間たちと談笑する彩牙の姿。
「“鍵”が必要になるまで、まだ猶予はある」
「寛容なお言葉、有り難く思います。必ず鍵を手に入れてみせます。」
「頼む。私には彼が必要なのだ…たとえ、天の理に背くことになったとしても…」
帝の形の良い唇からつむがれた、独白めいた呟きは、微かにかすれて空気を震わせた。
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「うわぁあぁあー!速い速い速いーっ」
「彩牙。暴れないで、掴まっていて」
郊外の雪原を二つの犬ぞりが走っていた。
「なーにやってんだか」
犬ぞりの不安定さとスピードに慣れないのか、騒ぐ彩牙を江がなだめている。
どうやら江は、彩牙の両親のエピソードをなぞらえる気らしい。
子供っぽいというか、なんというか、江にはそういう所がある。
彩牙は気付いているだろうか。 無邪気な江の笑顔など長い付き合いの蓮飛ですら数回しか見たことが無いものだと。
「仲がよいですね〜。さて、そろそろ宿に戻りましょうか。…蓮飛さん?」
「あ、あぁ、そうだな」
龍景の穏やかな声に、蓮飛は物思いから引き戻された。
彩牙たち一行は、途中、モンスターの襲撃に遭いながらも無事にコクトウ領に入り、領境に程近い小さな邑に到着した。
明日からは雪原を渡らなければならない。
そのため、当初の予定通り犬ぞりを2組借りてただいま試運転中である。
経験があるらしい江はともかく、龍景も初体験だと言うので不安だったからだ。
蓮飛は、長髪を器用に三つ編みにしている青年をちらりと見上げる。
「何です?」
「いや、なんでもねぇ」
龍景は見事に犬たちを操っている。
乗馬が上手いヤツは犬ぞりもできるのか?
蓮飛は少々ひねくれた感性で感心した。
犬たちを止めてそりから降りると、きゅっと雪が鳴いた。
凍えるような寒さには苦手だが、雪は嫌いじゃない。
どちらかというと好きだ。真っ白で清くて。
「あ、こら!」
ワンっと威勢のいい鳴き声と龍景の制止の声が聞こえて振り向くと、犬たちが足元にすり寄ってきていた。
ついさっきまで犬は少し苦手だったのだが…
「…お疲れさん。明日は頼むぞ」
しゃがみこんで声をかけ、勇気を出して頭を撫でると嬉しそうに尻尾を振った。
蓮飛の顔に知らず知らずのうちに笑みが零れる。
「可愛い…」
「あぁ、案外可愛いもんだな、犬も」
「そうじゃなくて…」
「?」
犬にまで嫉妬している龍景の胸中など、蓮飛にわかるはずもない。
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「江〜〜〜?」
「何かな、愛しい彩牙」
「俺、“ゆっくり”って言ったよなぁ?」
「あぁ、ごめんよ。犬ぞりは久しぶりだから、感覚が掴めなくてね」
彩牙は自分に覆い被さりながら綺麗に微笑む美丈夫に、半信半疑の眼差しを向ける。
彩牙と江は案の定、雪の上に放り出されていた。
「怪我はない?」
「大丈夫っぽい。雪がクッションになるって本当なんだな」
起き上がろうとすると、江が引っ張ってくれた。
付き合いだしてから、江はますます過保護になった。
まるでお姫様扱いで気恥ずかしい。
ひとつひとつから彼の想いが自分に染み込んで行くようだった。
「彩牙」
「ぅわっ」
不意に引き寄せられ、抱き締められる。
冷たい雪の中では、低いはずの江の体温も熱い。
「何があっても、私はキミを守るから」
甘く響く心地よい声に、彩牙は頬が熱くなるのを止められなかった。
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「暢気なことで」
少し離れた岩陰から4人を伺う影が1つ。
紅い髪の男は、一瞬笑みを覗かせて、踵を返した。
衝突の時が近づいている。
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