そこにあったのは、魔を引きずり込む深い闇。
底が見えないくらいの、深い、深い、深い───。
「どうしてお前はじっと待ってられないんだっ」
「ご、ごめんなさい…」
腕を組んで仁王立ちしている蓮飛の前で、彩牙は肩身を狭そうにして縮こまっていた。
しゅんとうな垂れるその様は、叱られた子犬のよう。
一瞬表情の緩んだ蓮飛が内心慌てて渋面を作っていると、彩牙の肩を抱いて支えている江が笑った。
「江、お前もだぞ!お前が彩牙を止めなくてどうすんだよっ。ついさっき溺れたばかりだってのに!」
「悪かったよ…反省してる。」
「まったく……彩牙、ちょっとこっち来い。診てやるから」
溜息を一つ吐いて彩牙の腕をとった蓮飛に大人しく従う。
蓮飛は江と龍景に背を向けるように彩牙を座らせ、服を肌蹴けると即席問診を始めた。
さすが薬師も兼ねているだけのことはあって、手馴れたものだ。
「気分が悪いだけか?」
「うん、他は大丈夫。なんかくらくらして、少し気持ち悪くなっただけだから」
睨むように真剣な顔をして尋ねる彼に苦笑していると、背後から龍景の落ち着いた声が聞こえる。
「どうして、森になんて入ったんです?何かあったんですか?」
「あぁ…しばらくは休んでいたのだけれどね。彩牙がどうしても森のほうが気がかりだというから…」
江が自嘲的に柔らかく苦笑しているのが雰囲気で分かる。
なんだか申し訳なくなって、彩牙は急いで振り返った。
「江は悪くないんだ!俺がどうしてもって…」
「動くな」と蓮飛に頭を小突かれて姿勢を戻しつつ、流れた風に僅かに眉を顰める。
今もまだ風に含まれている何か。
それは黒くて、深くて…彩牙にとっては不快に感じるもの。
「風の中に妙なモノがあって…えーと、蓮飛が言ってる“気”ってやつかな?違和感というか、なんかすごく嫌な感じだったから、気になって」
「また風、か……それで森に入ったんだな?そんで?」
「鏡だよ」
彩牙の腕に付いていた軽い擦り傷に薬を塗っていた蓮飛の手が止まる。
ぽとりと落とされた言葉に振り向くと、夜色の美丈夫は手を口元に当てて思案しているようだった。
視線で促す龍景に応え、彼はそのまま言葉を繋げる。
「鏡があったんだ。ここから少し歩いてすぐのところで、木の洞の中に。そうだな…大きさはこれくらいで、丸くて、何かの儀式に使うような印象だったけれど」
「そうだな。で、それ見たらなんか急に気持ち悪くなっちゃって。あの鏡、なんか濃い闇みたいな感じがした…」
江に賛同して、彩牙は頭の中に思い描いた。それだけで少し眩暈がする。
鏡の中にあったのは、魔を引きずり込むような深い闇。
底が見えないくらいの、深い、深い、深い───。
「蓮飛さん、それって…」
「あぁ。彩牙、ちょっと待ってろ」
蓮飛と龍景は顔を見合わせると、頷き合って森の中に駆けて行った。
驚いた彩牙は目を丸くして慌てたが、江が肩を竦めて大人しくしていようと言うので、訳の分からぬまま二人を待った。
数分経った頃だろうか。
どこかで何かが割れるような音がして、まもなく二人が戻ってきた。
「彩牙。まだ気持ち悪いか?」
「え?……あれ?平気だ。いつもの、綺麗な風だ…」
屈んで彩牙の様子を伺う龍景に、深呼吸して確かめた彩牙はふるふると首を振る。
清浄な風が吹き抜けて、今までの不快さなど消し飛んでいた。
江の説明を求める視線に、龍景は苦笑する。
「すみません、彩牙と江さんに伝えるのを失念していました。あれは呪具なんです。ね、蓮飛さん?」
「呪法師が使う、術をかけた道具なんだ。死んだ獣で汚した水で作った水鏡。そしてこの前の洞窟にあった物と同じ、な…」
「洞窟に…?」
先日の洞窟での戦闘は、彩牙に陰を落としている。
あの時の魔物の慟哭が忘れられないのだ。
「殺してくれ」という、悲痛な叫びが。
「まさか…」
「あぁ、魔物の凶暴化の原因だ」
すっと江の目が細められ、鋭い顔つきになった。
蓮飛の言葉の意味を咀嚼した彩牙は、ばっと立ち上がる。
「じゃあっ、じゃあ誰かが魔物を無理やり凶暴化させてるってことか!?」
「そう考えると筋が通る。最近頻発してる襲撃事件も、魔物の大量発生も」
「怪しいのは、神殿で会ったあの黒服の人たちですよね。でも一体何が目的なのか…」
冷静な蓮飛と龍景の意見は、まったく彩牙の耳には届いてなかった。
いや、届いていたがそのまま通り抜けていた。
今、彩牙の心を占めるのは────。
「許せない…!」
突然大声を出した彩牙に、思わず三人が目を丸くする。
そんなことにも構わずに、彩牙の拳は強く握り締められて震えていた。
それは、燃え滾る怒り。
「許せねぇよ!罪のない人たち…戦う術すら持たない人たちを襲って、しかも戦いたくない奴を無理やり戦わせてるなんて!あんな。あんな…っ!」
「彩牙……」
言葉に詰まった三人は呆然と彩牙を見つめて、その瞳に本気の怒りと悲しみを垣間見る。
「魔物の暴走を止めるにはっ?無理やり戦わされてる魔物を殺す以外に助ける方法はっ?」
「無いな…。一度術にかかっちまうと…元々魔の生き物だ、人間とは相容れない…」
詰め寄ると蓮飛は戸惑いながら首を横に振り、彩牙は落胆する。
できるなら、助けてあげたい。
「殺してくれ」と、あの悲痛な叫びが木霊する。
「……殺した魔物は…どうなる…?」
慰めの言葉をかけようとしていた周囲の意に反して、ぽつりと落とされた焔。
「天に召されて…浄化されるんだ」
「輪廻の環に従い、新たな生として再びこの世に生を受ける」
「彩牙?」
自分が差し伸べられる救いの手は、それしかない。
傷ついた人を見ないためには。あんな慟哭をさせないためには。
「…俺、魔物を倒すよ。もう迷わない。人間も魔物も助けたいから。皆には世話かけるかもしれないけど、付き合ってくれるか?」
空を見上げる彩牙の瞳には強い意志の輝きが宿り、それに呼応するかのように一陣の風が吹き抜け、江たちの髪を揺らした。
|