まったくもって、自分らしくなかった。
風の言葉と。
それが伝えた魔物の言葉と。
昨夜の江の言葉。
それらが頭の中をぐるぐると不規則に回ってしまい、彩牙は不覚にも悩み込んでいた。
(これじゃダメだ。皆に余計な気を使わせてる。蓮飛なんて、特に。…でも。)
あまりにも謎が多すぎる。
彩牙は息をついて、なんとか動揺しきった心を落ち着かせて考える。
(今、自分がやらなきゃならない事はなんだ?)
旅の目的は両親の手掛かりを見つけだすこと。
アイデンティティを求めるなんて、どこかの冒険小説の主人公のよう恰好つける気は無かった。
「自分が何者であるか」なんて、彩牙はあまり興味はなかった。
何があろうと、どんな変化をしても、それが「すべて自分」だ。
気がかりなのは、そんな事ではなかった。
なぜ。
突然、魔の声が聞こえるようになったのか。
なぜ。
魔物たちがあんな悲鳴をあげたのか。
…何かが、変わってしまったのかもしれない。
しかもそれは、嫌な方向に流れている気がした。
生を受けた時から当然のように世界を愛する彼は、その事にだけ胸を痛めていた。
(あーもーっ、考えててもしょうがない!今の俺には何もできないし。そもそも、わかんない事ばっかじゃんか!…旅してれば、その内わかってくるよな。…よし)
彩牙は胸に立ち込めていた2つの大きな暗雲を吹き飛ばした。
しかし最後の謎に直面して、鼓動を跳ねさせる。
(江…。)
昨晩を思い出し赤面する。
確かに。
何の記憶違いでもなく、確かに彼は真摯な目をして言ったのだ。
(好きって何だよ…。)
恋愛経験が皆無な彩牙は、めっぽう色事に疎かった。
どのレベルの「好き」なのか、彩牙には判別がつかないのだ。
(俺が落ち込んでたから、慰めてくれたのかな…。慰め方が変わってると思うけど)
無理やりされたようなものながら、彩牙は江に嫌悪は感じていない。
むしろ無かった事のように今までどおりの、仲間意識が芽生えた感じの、友好的なものしかなかった。
彩牙自身ですら不思議だったが、たぶん嫌いになるより良いことだろう。
そう考えた彩牙は、彼への返事は頭の片隅に置いておくことにして、目前を見据える。
(とりあえず、シュカでやることをやるしかない。)
そう決意がついた頃、シュカ領の張邑(ちょうゆう)を見下ろす丘の上についた。
透明に澄み頬を掠める風に彩牙は目を細め、次に前方に突然現れた輝きに目を見開いた。
「うっわー!なぁっ、あれ、湖なのか!?でっけぇーっ!」
思わず漏れた驚嘆に、三人が目を丸くして彩牙を振り返った。
「え?え?何だよ皆して。俺、変な事言った?」
「い、いや、変じゃないけど…」
龍景が驚いたような顔をしているのを、不思議そうに見上げる。
その時やっと、今までのどこか重苦しい空気が柔らいだ。
一早く立ち直った江が、彩牙に微笑みを向けた。
「そうだよ。このハイアン国で最大の湖。シュカの街は、あのエンティ湖を周りを取り囲んでいるんだ」
「へぇー。」
「お前、それぐらい知ってろよ。常識だろ?」
「ぅ、うるさいなぁ。ハクシュウから出た事無かったんだからしょうがないじゃん!」
「いーや、初等学舎で学んでるはずた。」
「あ、あれ?そうだっけー?あははー…」
「まぁまぁ、実際に見ないと覚えられないものですよ」
「だよな!」
「お前、甘やかすなよ」
フォローする龍景に、蓮飛が思わずツッコミを入れた。
蓮飛の空気が一瞬緊張したが、すぐにほっとしたように溶けた。
龍景が微笑んでいたからだろうか。
「そんなに気に入ったなら、先に湖を見に行こうか」
そう言ったのは、江なりの気遣いだったのだろう。
彩牙は一もニも無く頷いた。
エンティ湖は工業地域シュカの生命の源だった。
鉄鋼業が盛んなシュカ領では、東側に工場が立ち並び、西側に販売店や問屋、運送業者たちが華やかさを作り出していた。
「うわぁっ!やっぱでっけーっ!綺麗ーっ!」
目を輝かせて湖の浜辺を駆ける彩牙に、江は目を細めた。
湖水に触れると、涼やかな清らかな水の調べが指を伝う。
彩牙は嬉しそうに微笑んで指を遊ばせた。
和やかな空気に包まれ、柔らかな沈黙が降りた時、どこからか子供の泣き声が聞こえた。
「…こっちだ」
耳を傍立てた蓮飛が、スタスタと歩き出す。
慌てて彼について行くと、そこにいたのは、7、8歳ぐらいの小さな女の子だった。
隠そうとするように鳴咽を漏らしながら、膝を抱えてうずくまっている。
「どうした?」
蓮飛が努めて優しめに声をかけると、驚いたように顔を上げた。
薄茶色の髪を可愛らしくツインテールにしている彼女は、大きな琥珀の瞳になみなみと涙を湛えてじっと見つめてくる。
警戒している少女に、少し躊躇した蓮飛の後ろから龍景が顔を出した。
「大丈夫だよ。俺達はただの旅行者だから。こんなところに一人で、どうしたんだい?」
しゃがんで視線を合わせた龍景は、にこっと穏やかな微笑みを向けて首を傾げた。
すると少女は、潤んだ瞳をさらに潤ませて龍景に抱きついた。
「…っちゃったの!」
「え…?」
「首飾りを落としちゃったの…お父さんから貰った…大事な…」
「首飾り…?どこでだい?」
「浜辺で…っ紐が切れて…っ」
「ふむ…浜辺か…」
江が手を口元に当てて眉を顰めた。すでに波に掠われてしまっているかもしれない。
いくらエンティ湖水がかなりの透明度を誇っているとはいっても、底から小さな首飾りを見つけるのは困難に思われる。
「じゃあ、一緒に探そうか?」
「でも…」
おそらく一人で散々探し回ったのだろう。少女の表情には、半分諦めが覗いていた。
「…ったく。泣いてるくらいなら探せ!大事なんだろ」
「あ、蓮飛さんっ?」
今まで黙っていた蓮飛が袴の裾を上げて靴を脱ぎ捨てると、バシャバシャと湖に入って探し始めた。
そんな蓮飛の潔い男らしいところが彩牙は好きで、なんだか嬉しくなって、蓮飛の後を追いかけた。
「蓮飛!待って、俺も!」
「ちょっ、彩牙!」
捜索を続けて数十分後。
やはりそうそう見つかるものではなかった。
中腰姿勢で疲れた腰を伸ばすと、必死に探す少女の姿が目に入る。
実際、親のいない彩牙には、少女の気持ちが痛いほどわかった。
(見つけてあげたいな……)
そう彩牙が願った時、湖面を涼やかな風が滑った。
彩牙の頭に一つの考えがぽんと浮かぶ。
(もしかしたら…、『応えてくれる』かも……)
「皆、ちょっと浜辺に上がっててくれる?」
「どうしたの、彩牙?」
「ちょっと試したいことがあるんだ。頼むっ。」
ぱんっと手を合わせて笑う彩牙に、みな不思議そうな顔をしながら浜辺にあがる。
一人残った彩牙は、さらにザブザブと湖の中に進んでいった。
ちょうど水位が膝あたりに来たところでピタリと立ち止まると、そっと目を閉じて両腕を持ち上げる。
「お願いだ。分かるなら、教えてくれ。あの子の大切なものは…どこ?」
祈るような願いの言葉を囁くと同時に、湖面を爽やかで心地よい風が吹き抜け、まるで彩牙を中心に渦を巻くように流れ始める。
仄かに湖面が青く輝いて、さざ波が立つ。
風に、水の精霊が、呼応している。
ふわふわと蜜柑色の髪を揺らしながらそっと立っていた彩牙は、不意に口元を綻ばせ目を開いた。
ふわりと優しく風が途切れ、元通りになる。精霊の気配も溶けていった。
唖然としている仲間たちを気にせずに、彩牙は湖を迷わずに進み、突然しゃがみ込んで底から何かを拾い上げる。
「みーーつけたっ!ほらっ、これだろーーっ?」
自然と浮かぶ笑顔とともに振り返った彩牙の手には、キラリと光る首飾りが掲げられていた。
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