真夜中の襲撃から数時間後。
朝日が昇って、昨日の騒ぎは嘘のように村は爽やかな朝を迎えていた。
昨日の名残と言えば、壊れた建物がいくつかあるくらいで。
本当に被害が少なくて良かったと、廊下の窓から除き見た彩牙は目を細める。
食堂に着くと既に朝食の準備は整えられていて、蓮飛と龍景が席についていた。
「早く座れって。飯が冷めるだろ?」
「うわ、おいしそうっ」
「なんだか、少し豪華な気がするけど?」
「えぇ、昨日のお礼ということでサービスしてくださいました。」
「やった!いただきまーす♪」
夜中に戦闘なんてしたせいかお腹が減っていた彩牙は目をキラキラさせて、席に着いた途端にぱくぱく食べ始める。
朝からずっと彩牙の様子を気遣っているようだった江が、その隣に陣取りながらくすくすと苦笑した。
彩牙に倣って賑やかな朝餉を始める。
そんな4人のテーブルに、数人の町人たちが近寄ってきて声をかけた。
「昨日は、本当にありがとうございました。皆さまは冒険者の方だと伺いましたが?」
「えぇ、そうですけど」
「そうですか、それは良かった。あぁ、失礼。私はこの町の町長をしている者です」
村人たちの中心にいる年老いた老人は、丁寧に頭を下げた。
箸を止め、龍景が丁寧に対応する。
さすがというか、こういう対応は龍景が上手いみたいだ。もちろん、江も経験ゆえか上手いのだが。
(やっぱ、金持ちだとそういう勉強もしてるんだろうなー…)
龍景の生家、孫家はハイアン五大家の一つに数えられ、その名はハイアン全土にまで浸透している。
何しろ、政治にまで口を挟めるくらいの力を持っているのだ。
いくら世間に疎い彩牙でも、名前ぐらいは知っていた。
黙々と皿の上を片付けていた彩牙の隣で、江もまた箸を置き、一度そっと目を閉じると町長に向き合った。
「何か、私たちに御用がおありのようですね」
「えぇ…、昨日、あの巨大な魔物を倒してくださった腕を見込んで、お願いがあるのです」
「おねふぁい?」
「馬鹿っ、口の中に入れたまんましゃべんな。で、食べるのも中断しろ」
「構いませんよ。どうぞ、食事を続けながらで結構ですので聞いてください」
蓮飛に軽く叩かれて、慌ててもぐもぐと口内の物を飲み込む。
そんな微笑ましい様子に町長は笑った後、重々しく口を開いた。
さくさくと、草を踏みしめる音が4つ。
鬱蒼とした森の中、日の光が届かないほどの深さは暗い静寂に包まれている。
いや、静寂というには草の音や獣の息遣いが騒がしいはずなのだが、なんとなくの薄気味悪さに陰鬱な気分になった。
木漏れ日さえない森は、天然の暗い迷宮のよう。
「まだなのか〜?でっかい魔物を見たっていう場所は〜」
「うん。書いてもらった地図によると、もう少し森の奥だね」
枝々で覆われ暗い影を落とす天を見上げた彩牙に、町長に書いてもらった地図を手にして後方を歩いていた江が答えた。
「何だよ、彩牙。こんくらいでへばってんのか?」
「ちがうよ。まだまだ元気!ほらっ」
拳を握って軽やかにぴょんっと飛び跳ねてみせる。
江は優しげな眼差しを寄越し、蓮飛は冗談半分に肩を竦めて呆れてみせた。
細い道のため、張り出している木々を先頭で払っていた龍景も振り返って微笑んでいる。
町長の依頼というのは、町はずれにある森に巣食ってしまった魔物を退治して欲しいというものだった。
彼らの話によると1、2ヶ月前から急に強力な魔物が現れ始め、数人の町人たちが襲われているという。
森での狩猟や木材の調達は貴重な生活資源で、安心して仕事が出来ずほとほと困り果てていたらしい。
冒険者ギルドに依頼は出しておいたものの、報酬が少ないことや交通の不便さからなかなか請負う者も現れなかった。
彩牙たちがそこへ偶然立ち寄って、昨日の顛末という訳だ。
きちんと報酬は支払うからと頭を下げる町長の願いを断るのも可哀相だったし、何より困っている人を見過ごすのは彩牙の心が許さなかった。
二つ返事で了承した彩牙に押されて、他の三人も渋々頷いた。
特に蓮飛は「寄り道してるとシュカ入りが遅れる」と渋い顔をしていたが、彩牙の強い瞳と、「この旅の主役である彩牙がそう言うんだから、いいんじゃない?」という江の言葉と、「困っている人を見捨てるのは、やっぱり気が引けますよ」という龍景の説得で首を縦に振った。
そういうわけで、4人は馬も通れない深い森の中を歩くことになったのだった。
明確な棲家は分からないとのことなので、とりあえず巨大な魔物が目撃されたという場所を目指している。
「ただ…、その、なんか嫌な感じがするから、さっさと終わらせたいなーって」
(風が……気持ち悪い……)
森の中を時折、生暖かい風が縫うように吹いて頬を撫でていく。
纏わりつくようなそれは魔物のせいだろうか、少しばかり邪悪な気配を帯びていた。
少し顔を顰めた彩牙は、ふと昨夜のことを思い出して歩くスピードを緩め、すぐ後ろにいる蓮飛に並ぶ。
「あのさ、蓮飛。ちょっと聞きたいんだけど」
「なんだ?」
ひそひそと内緒話をするように囁いた彩牙に、不思議そうに見やりながら蓮飛も音量を下げて答えた。
「昨日、江から聞いたんだけど『ブレス』って知ってる?西域の言葉らしいんだけど」
「『ブレス』?……意味は?」
「えーっと…、確か…神の吐息…で、……加護のある風…だったかな」
江の言葉を思い出しながらたどたどしく口に出すと、蓮飛は細く白い手を顎に当てて少し考え、
「加護のある風……。あぁ、『神風』のことだな」
「『神風』?」
またも聞きなれない言葉にきょとんと首を傾げると、蓮飛は苦笑してぽんぽんっと彩牙の頭に手を置いた。
「ヤトマの言葉だ。意味は大体同じだな。大いなる神の加護であり、神の意思を示すもの。世界を統べる輪の源から流れ出る息吹。」
「う、うん??」
「ククッ、そんな、眉間に皺寄せんなよ。要するに、神様の声ってヤツだ。」
難しい言葉を列挙され、思考回路がパンクしそうになった彩牙を見て、蓮飛は可笑しげに肩を揺らして笑った。
彩牙は唇を尖らせる。
そんな子供っぽい態度にまた笑った蓮飛は、ふっと真剣な表情になって彩牙を見た。
(あ…昨日と同じ顔)
昨夜の戦闘の後、風に乗って運ばれた魔物の声につられて屍骸に手を伸ばした自分を止めた、あの時と同じ。
「どうして、そんなこと聞くんだ?」
「え、いや、江に蓮飛に聞いてみろって言われたから…」
「なんでそんな事、あいつは言ったんだ?」
詰問するような追及に、たじたじと後ずさる。
何故だかあの事は誰にも言わない方がいいような気がしていたが、勢いで江に言ってしまった以上、蓮飛にだけ隠す意味もない。
もともと蓮飛に問われて、隠すことなど出来ない彩牙だ。
肩の力を抜いて、昨日の体験を正直に話した。
軽く驚いたように目を見開いた蓮飛は話を聞き終え、神妙な顔をして彩牙に尋ねた。
「じゃあ、彩牙には“風の声”が聞こえるってことか?で、それが魔物の感情を伝えたって?」
「うん………おかしい…、よな。やっぱり」
困ったように顔を歪めて俯くと、蓮飛が慌てて手を横に振った。
「いや、おかしいっつーか、なんつーか…。確かに普通は、んなモン聞こえねーけど。別にだからって彩牙が人間じゃねぇとか、そんなこと言わねぇよ?」
「ありがと、蓮飛。気味悪がられるかと思って、今まで誰にも言わなかったんだ。」
「…別に、礼を言われるような事じゃねぇよ」
その優しさが嬉しくて、にこりと笑いかけると蓮飛は照れてそっぽを向いた。
そんな態度が少し可笑しくて蓮飛には悪いけれど、くすくすと笑ってしまう。
「で?そういう事があったのは、今回が初めてか?」
「うーん…、そうだと思う、たぶん」
「おいおい、はっきりしねぇなー」
「だって、“風の声”が聞こえるようになったのって、いつなのか俺にもわかんないんだ。いつも、風は俺の周りに吹いてて。ずっと語りかけてくれてて…。すっごく小さかった時から聞こえてたような気がするし……」
風は、いつだって自分の周りにいて、様々なことを彩牙に語りかけ伝えてくれる。
それはもうずっと変わらない事で、彩牙にとっては特別でもなんでもなかった。
ただ他の人には聞こえないらしいという事を子供ながらに察して、幼い頃から今まで誰にも言わないではいたけれど。
二人だけの例外を除いて。
自分に「風の声を聞け」と残した父。そんな父の側に寄り添い、見守っていた母。
(父さんにも…“風の声”が聞こえてたのかな……。)
「そっか…………。」
「蓮飛?」
ぽつりと落とされた言葉に回顧していた思考を断ち切ると、一瞬眉を顰めた蓮飛がいた。
不思議そうに見つめると、蓮飛はぱっと表情を緩めて彩牙に向き直った。
「ま、考えてたってしょうがないだろ。また、そういうことあったら教えろよ?」
「う、うん…。わかった……」
いつもの余裕たっぷりな強気な笑顔とは違う、柔らかな優しい笑みに戸惑いながらも彩牙は頷くしかなかった。
暖かすぎる視線に、曖昧に何かを隠された気がしたけれど。
「『清浄の者』は自身の清らかさを知らず……か…」
二人の背後で紡がれた江の言葉は、彩牙には届かなかった。
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