「彩牙、もういいぞ。後は俺がやる。ありがとな」
「はい、お疲れさまでした!」
ぴょこっとお辞儀をして、彩牙は道場を後にした。
割とご機嫌で軽い足取り。
(このまま家に帰って、夕飯の支度手伝って…)
「って、違う!蓮飛んトコ行かなきゃ」
はっと思い出すと同時に、嫌な顔も浮かんだ。
先刻なぜか道場までやってきて、意味不明な事をしていった男。
「アイツも、いるのかな…やっぱり」
『じっくり聞かせてあげるよ』
不適な笑みと、背筋粟立つような低い囁き。
頬に触れた感触まで引き出してしまって、彩牙は大きくかぶりを振った。
往来でそんな挙動不審な動きをしていると、ぶわっと風が吹き抜けた。
「あ」
咄嗟に手で顔を守る。
その風に感じた、不思議な印象。
彩牙は通り抜けた後も、正体を確かめるように目で追う。
ふと弾けるように沸き上がったのは幼き日の記憶だった。
風が吹き渡る草原で。
母が隣にいて。
父は自分を膝に乗せて、色んな話をしてくれた。
そして最後には、いつも必ず言うことがあった。
『彩牙、風の声を聞きなさい』
『聞き逃しちゃ駄目だ。どんなに小さな声でも』
『お前には、できるはず』
どこか遠くを見つめながらそう語る時の父は、とても優しくて、大きくて、力強くて。
『風はいつだってお前の味方だから。彩牙、強くなりなさい』
意味はわからなかった。
けれど、忘れられない言葉。
「何だろ…?」
風が騒がしかったように思えた。
例えるなら、何かが始まることを恐れるような、何かの予感を連れてくるような。
彩牙は無意識の内に、ノースリーブで晒されている左上腕を押さえる。
そこには、何かが渦巻く形をした、文様のようなタトゥーが入っていた。
再び歩き出しながら首を捻っていると、見たくないものが視界に入った。
いや、見たくないというか、会いたくなかった。
「げ、江…」
「やあ、迎えに来たよ」
にこやかに手を振る江に、思わず身体が強張る。
浸っていた感覚など、一気に吹き飛んでしまった。
嫌そうな顔の彩牙に江は笑って、無駄な動き一つなく近寄ってしっかり隣に並んだ。
「蓮飛に仰せつかったんだよ。君を店までエスコートしろって」
「蓮飛が?」
「あぁ、石版の謎、少しだけわかったんだそうだよ。…それにしても」
江はそこで言葉を切ると、彩牙を見下ろす。
呆れたような、楽しんでいるような苦笑が浮かんだ。
「何だよ」
「こんなあからさまに距離を置かれるのも悲しいな」
「うるさいっ、アンタが悪い!」
二人の間は、人二人分くらいの微妙な距離を保っていた。
警戒心剥き出しの彩牙は、威嚇する子犬のよう。
先程の忠告を覚えているのは良い。
だが、びくびく警戒しながらも素直について行くあたり、なんとも可愛らしい。
何かを企むように目を細めた江に、幸か不幸か、身長差ゆえ彩牙は気付かなかった。
ただ、道行く女性の注目を浴び続けている江を、
(やっぱり恰好いいんだよなー、コイツ。)
(男の俺でもそう思うくらいだし。)
(女にすげーモテそう。)
などと暢気に思っていた。
そして気がつけば、薬屋の前だった。
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