第71話「歌夢違行 」



微かに震える、静かな歌だった。

少し肌寒くて薄暗い部屋の中で、頼りない蝋燭の灯りが揺らめいている。
上からそっと落ちてくる歌声は、その部屋を少しでも暖めようとしているかのようで、少しほっとする。
その声の主は、消え入ってしまいそうなほど美しい顔立ちで、ヤトマの豪華な着物を身に着けている女の人だ。
優しく頭を撫でながら、子守唄として口ずさんでくれている。
その女性に話しかけたいのだけれど、彼女のどこか影のある瞳の奥が気にかかって咽喉が詰まった。

ヤトマの畳の香りや、見上げている天井の形状から


(ああ、これは夢だ。)

と、彩牙は確信した。

布団に寝かされている誰かの視点になっているが、自分にこんな記憶はない。
この視点の持ち主は、どうやら幼い子供のようだ。


「月仁…」


柔らかな声に呼ばれる。
それだけで胸がいっぱいになって、どうしようもなく嬉しい気持ちが溢れた。


(あぁ、この子はきっと親と一緒に居られる時間が少ないんだな…)


この感覚は彩牙もよく知っているのだ。


「これから先、何かを失っても、決して誰かを憎んではなりませんよ」


  その言葉は先程までの幸福感を粉々に打ち砕いて、現れた心の隙間に鋭い刃を突き立てる。
思わず目を開けると、優しさを帯びた黒い瞳がこちらを見つめ返す。


「どうして…こんなに苦しいのに……」


零れた幼い小さな声に、彼女は儚く微笑んだ。


「復讐は…何も生みません。悲しく寂しい気持ちが増すだけなのです。孤独になるばかりなのです」


そんな綺麗事は聞きたくなかった。
心の中が憤怒と憎悪でぐちゃぐちゃになる。目の前が真っ暗になったような気分だ。
自分や両親が世間から非常に不条理な目に合わされているという事実を、幼心にはっきりと感じ取っていた。
今だって、隣室では父と海向こうの国の使者が険悪な雰囲気で難しく危険な話し合いをしているのも察している。
しかし、


「月仁、貴方だけは守りますからね」


母の精一杯の思いを込めた慈愛の眼差しに、二の句は告げられなかった。
優しく聡明な彼女の前では、口を噤んで小さく頷くしかなかったのだ。

そして急に目の前が真っ暗になって、上下左右がわからなくなった。
己の手足すらわからず、ただ闇の中にぽっかりと自分の意識が浮かんでいるようだ。


「でも、母上…」


幼かったはずの声が、よく通る青年の声に変っていた。


「みんな、居なくなってしまったのです」


彩牙ははっとして息を呑んだ。


「それでも、憎むなと仰るのですか」


「理解してはいるのです。でも…、もうすでに私には何も無いのです。親も。兄弟姉妹も。臣下も。財産も。地位も。自国も…。 すでにどうしようもなく孤独なのです。これ以上、失うものなんて無いではないですか」

「だったら…」


‘奪われた’という事実だけでも白日の下に晒したい。
落ち延びて質素な暮らしを強いられ軟禁に近い状態でも、あんなに国を思って民に慕われていた祖父母や両親の存在を ‘なかったこと、居なかった者’にはしたくなかった。


「私は、天地をひっくり返してみせましょう。その為なら地獄に堕ちても構いません」










──そんなのは、違う!!─

そう叫んで反論しようとしたところで目が覚めた。


「あ…、蓮飛?」


視界に入って来たのは、気心の知れた親友の心配そうな顔だった。


「魘されてたぞ。肩の刺青も光ってたし大丈夫か?…って、おい、そんなに悪い夢だったのか!?」

「え?」


こちらの顔を見て慌てる蓮飛に指摘されて、そっと頬に触れると指先が涙で濡れる。


(あぁ、こんなにも、彼は…)

「なぁ、蓮飛」

「なんだよ?」

「俺、絶対に‘帝’を止めるよ。アイツを助け出したい。助けなきゃいけない」


あの、とても暗くて寒い場所、から。


「あ、あぁ。どうしたんだ、改まって」


怪訝そうに柳眉を寄せる彼に、彩牙はくすりと笑みを零した。















力強く澄み渡る、朗らかな歌だった。

ぽかぽかと暖かくて仄かに甘い香りの草原で、瑞々しい草花が風に撫でられてキラキラと瞬いている。
上から緩やかに降りてくる歌声は、陽光をたくさん吸い込んでいるかのようで、心が安らぐ。

その声の主は、ハイアンの中でも珍しい民族衣装を着た色黒の逞しい腕をした男だ。
自分を後ろから包み込むように膝に乗せて、子守唄として口ずさんでくれている。
その男性に呼びかけたいのだけれど、彼の朗々と響く歌声を邪魔できなくてそっと言葉を仕舞った。
遠くに見える地平線や、頭上に広がる晴れ渡った青空に


(ああ、これは夢か。)

と、月仁は確信した。
膝の上に乗っている幼い子供の視点になっているが、自分にこんな記憶はない。


「…彩牙」


凛々しい声に呼ばれる。
それだけで微睡に重くなっていた瞼は軽くなり、安堵と期待が混ざった喜びで満たされる。


(あぁ、この幼子はきっと親とともに過ごす時が少ないのだな…)


この感覚は月仁もよく知っている。


「一緒に居てやれなくてごめんな。でもお前は大いなる神風に愛されている。精霊たちがいつでも傍にいてくれるよ」


  その言葉は見ないふりをしていた胸の奥の暗がりに、切なく染み込んでいく。
滲む涙を必死に耐えながら見上げると、慈愛溢れる空色の瞳がこちらを見つめ返す。


「でも俺は…父さんと母さんに、いてほしいよ…?」


それ以外はいらないと言外に含ませた問いかけに、彼は眉を寄せて微笑んだ。


「本当にごめんな…。俺たちだって彩牙と一緒に居たい。でも、どうしてもやらなくてはならない事があるんだ」


「父さんと母さんじゃなきゃ、できないこと?」

「あぁ、お前もいずれ分かる時がくるよ。」


そんな事を言われても、理解できるはずはなく。
納得できないまま、それでも深い決意を秘めた瞳の前では頷くしかなかった。
その時、逆光だった父の顔がやっとはっきりと確認できて、月仁は息を呑んだ。


(ああ、この男…!そうか、風の愛児の父だったのか…)


「彩牙、お前を愛しているよ。どんなに遠く離れた地からでも。信じている」


これから愛児に訪れる試練を思っているのだろう、申し訳なさそうに頭を下げて、 けれど未来への希望に溢れた強い眼差しを向けた。
風が柔らかく頬を撫でる。

そして急に目の前が真っ白になって、天地がわからなくなった。
眩しすぎて周囲がよく見られない、ただ光の中にぽっかりと自分の意識が浮かんでいるようだ。


「父さん、母さん」


幼かったはずの声が、父によく似たまっすぐな少年の声に変わっていた。


「俺、やっと此処まで来たよ」


左肩に僅かな痛みが走って、渦を巻く風の愛児である徴が熱を帯びる。


「大事な人もできたんだ。俺のやらなきゃならない事も分かってきた」


風が周囲を取り囲んで、髪が揺れ乱れる。


「絶対に、守り抜いてみせる。だって俺は…一人じゃない」















「おい、帝。起きろよ」

「ん……レックス…?」


重い瞼を持ち上げる前に、部下の名を呼ぶと微かに笑う気配がした。
自分に敬語を使わないのは彼ぐらいなのだから条件反射は仕方ない。


「魘されてたぜ。いつも死んだように静かに眠るのに珍しい」

「そうか…。けほっ…ごほごほ……ッ!」

「帝!」


咳き込んでしまい慌てて口元を手で覆うと、丸まった背中をレックスの手が優しく支えてくれた。
口調や態度は尊大で自分勝手だが、その実、真面目なこの男をけっこう高く評価している。
彼でなければ、閨への侵入は許さないし、こんな弱った姿も見せない。

もしかしたら、友人とは、こういう感じの者なのだろうか?


「………なぁ、帝。アイツには教えてやってもいいんじゃねぇの?」


掌に付着した少量の血液を懐紙で乱暴に拭っていると、彼が躊躇しながら口を開いた。
赤い瞳は少し心配の色を滲ませている。

その瞳が、いつも自分に付き従い絶対的な忠誠を尽くしてくれている少年のものと重なった。


「いや……崇拝を失うわけにはいくまい。私は、このクーデターの象徴だ。希望なのだ。強くあらねばならない」

「…………」

「…ユディには、言うな」


言い訳なのかもしれない。

単純に知られたくなかったのだ。
誰よりも純粋な好意を寄せてくれている、彼にだけは。

知ってしまったら、彼はきっと今まで以上にひどく悲しい瞳をして、自分の事のように苦しむだろうから。
彼のそんな顔は見たくない。

彼だけは。


「レックス、作戦を次の段階に移行するぞ」















「そうか。やはりシュトイド兵だったか…」


秀麗な顔を悩ましげに歪めて溜息を吐いた江は、リヒャルトの差し出した資料に目を落とす。
そこにはあの金髪の呪術師の少年のかなり幼い顔写真があった。

何回かの遭遇と戦闘を見て、彼の西域訛りのハイアン語と シュトイド軍で採用されている基本体術と同じ姿勢にひっかかりを覚えていた江は、 旅の合間に実兄に手紙で問い合わせてみたのだ。
第一位王位継承者であり、騎士団の総長でもある兄ならば兵士登録を照会することぐらい訳もない。


「軍学校卒業後、魔術師部隊に所属。主に諜報活動を担当。 10年前、ハイアン国内での任務中に同部隊員5名を殺害ののち失踪。行方不明。 …帝が活動し始めたと思われる時期と一致するな」

「はい。ルフト様のお調べでは、彼の他にもここ10年で失踪したと思われる兵士が何人もいると…。 隣国のライランフィーハでも似たような行方不明者がいるとのことです」

「共通点は‘身寄りの無い者’か?」

「はい、紛争で故郷や家族を失った者ばかりだそうです」


帝の掲げる‘祖国の汚名を晴らして自治を取り戻す’という信念に共感したのかもしれない。 もしくは天涯孤独な彼らにしか解らない何かか。
シュトイドに居た頃、皇子という立場だった江には孤児院出身者が生きていく為には軍人になるか、 聖職者になるしか道は無いなんて知らなかった。
ましてや、それすら一握りで売春や麻薬を生活の糧にする者の方が多いことや、 差別され虐待やイジメを受けるケースが珍しくない なんて、皇族である彼の耳に入るはずがない。

当時の自分の無知さ、未だに改善に乗り出してすらいない母国の現状を情けなく思いながら、 江は眉間の皺を指で押し広げて緩めた。


「リヒャルト、私はこのまま彩牙たちと共にハイアン国内で帝の動向を探って妨害する。 兄上にそう伝えてくれ」

「畏まりました」

「なんとしてでも、大きな戦になるのだけは避けなければならない。いざとなったら武力介入できるよう、 騎士団の態勢を整えておいてくれ。それと、この機に乗じて西域の他国が仕掛けてくるかもしれない。 情報収集と警戒を強化するように。…更に、できれば古代大戦時の真実についても調査を進めてほしい」

「はい。…フルス様、初めてですね。我々を使ってくださるなんて」

「…………今は、意地を張っている場合ではないからね。」


意外そうに見つめてくる部下に江は柔らかく微笑みを返した。
その夜色の瞳が固い意志に煌めいている。


「地位も財力も使わせてもらう。どうしても守り抜きたい大切な人がいるんだ」


はっきりと告げる皇子はいつにも増して力強く壮麗で、聞いたリヒャルトの方が思わず赤面してしまった。
2人しか居ないのが勿体ない、部下たちに皇子の立派な騎士の面構えを見せたいなどと騎士団長が思っていると。

カタン、と軍艦の鉄の床を踏む音。
戸口を振り返れば、意を決したような凛々しい表情の龍景がいた。


「そういう事なら、俺も1枚噛ませてください」


束ねられた栗色の長い髪がさらりと揺れる。


「俺も兄たちを通じて、政界内部から調べてもらいます。五大家の中で誰かが‘古代の兵器’を知っていて、 帝の家族を暗殺しているはずです」

「龍景……。いいの?身内に牙を?くようなこと」

「なりふりかまってられなくなったのは、俺も同じですから」


にこりと穏やかに微笑んで頷く彼の目蓋の裏には、気丈で美しい陰陽師が映っているのだろう。


「それに知らなかったとはいえ、孫家の人間として責任も感じています。俺たちは償わなければ。見て見ないフリなんて出来ませんよ」

「…わかった。ではハイアン内部のことは龍景に任せるよ。ただし慎重にね。敵に感づかれたら、孫家が危ないだろうから」

「はい!」


数瞬の思案の後に、いつもの子供扱いするような笑みとは違う優しいまっすぐな眼差しを向けられて、 龍景は顔を輝かせて頷いた。
男として、江に認めてもらえたような気がしたのだ。


「フルス様たちは、これからどちらへ?」

「幸い、こちらには青臥がいるしね。まずは風の神殿を巡って守人と会い、 封印の結界を強めていくとしよう」

「また帝たちによって魔鏡もあるかもしれませんしね」


地図をなぞる江に、龍景も付け加えて賛同する。
と、そこへ異を唱える少年の声が割り込んできた。


「守るだけじゃ駄目だよ。帝を説得しなきゃ」

「彩牙!」


はっきりと告げる声に少し戸惑う龍景の隣で、恋人である江は言葉の意味を察して目を見張った後、ゆっくりと微笑みを浮かべた。
そんな彼の表情に無意識に安心しつつ、彩牙の橙色の唇が開かれる。


「俺、アイツを止めてやりたいんだ。こんな悲しい戦い、絶対終わらせなきゃいけない。そうだろ?」


最年少であるはずの彼の気迫にすっかり呑まれて、だいの大人であるはずのリヒャルトや龍景がこくこくと頷いている。

彩牙はもともと無意識の内に人心を掌握し、多くの人を統率する能力を持っている。
それは江や蓮飛も察している彩牙の才能の1つだったが、それがこんなに明からさまに使われた事があっただろうか。
彩牙が自分の才能に気づいていないからというのもあっただろうが、大きな理由は彼の性格。

優しいのだ。
自分以外の誰かを、特に困っている者や立場の弱い者ばかりを優先する。
ゆえに彼は、自分の主張を押し通すような真似は1度もしたことが無い。

何かが彼を変えてしまったのか?
いや、というよりも、譲れない何かが、芽生えたのだろうか。

そこまで考えて一抹の不安が過った江は彩牙の隣に並んで顔色を伺う。


「彩牙。…何か、あったの?」


落ち着いてと思っていたのに少しだけ震えた問いかけに、彩牙は切なげに微笑みを返すだけで口を開かない。















ジリリリリリリリリリリリ――――――!!!!!


「「「!?」」」


突如鳴り響いたけたたましいベルの音に思わず戦闘態勢をとってしまっていると、数人の兵士とともに蓮飛が部屋に飛び込んできた。


「今すぐ甲板に出ろ!陸で爆発が見えた。セイシュン京の辺りで黒煙が上ってる」

「な…!?」


蓮飛のいつも冷静な鋭い言葉に若干の焦りが感じられて、彩牙は愕然として血の気が引いた。
足を縺れさせながら甲板に出ると、ざわめく潮風に硝煙が混ざって頭がぐらぐらした。


「どうなっている!」

「はっ伝令によると…セイシュン京近くの河川にて爆発が起き、聖堂が崩落したと…!」

「まさか…風の神殿か!?」


リヒャルトが部下を締め上げて報告させているのを拾い聞きして、蓮飛がはっとした顔をする。


  「どうして…あそこは周(しゅう)家の直轄地なのに……」


遠くで勢いよく立ち昇る黒煙を呆然と眺めながら龍景が呟く後ろで、江は険しい顔をして小さく舌打ちした。


  「……また遅れをとったか」


きつく拳を握りしめていた彩牙の足元で、いつの間にかすり寄って来ていた青臥が不安げに鳴いていた。


「…帝……」





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by穂高 2011/12/19