まさか。
そう、誰もが真逆(まさか)と思うはずだ。
「七海(ななみ)」
微かに甘いビブラートがかかるバリトンの声は、不思議とよく通る。
試合中もこの声がコートを制しているおかげで、俺たちのチームは負け知らずだ。
ゴール下の守護神。鉄の壁。リバウンド王。我が校期待のバスケ部主将。
彼につけられたあだ名は多い。
「おい、七海。お前、甘い物は苦手じゃなかったのか?」
「あぁ、大いに苦手だな」
「じゃあ、何故そこにいる?」
彼は器用に片眉を釣り上げて、怪訝そうにこちらを振り返った。
その長身には若草色のエプロン。
確か去年のクリスマスに、藤沢(ふじさわ)が贈ったいわく付きの代物。
「だって部長は、みんなのお母さんじゃないっスか!」らしい。
「我らが滝川キャプテンさまが、チョコレートなんざ可愛らしい物を作る間抜けな姿を拝んでおこうと思ってな」
「間抜けで悪かったな」
彼は軽く睨むと、手元に視線を戻す。
ボウルの中でゆっくり溶かされていく茶色が、甘く芳しく鼻孔をくすぐる。
「誰なんだ? 豪(ごう)に日本式のバレンタインを教えたヤツは」
「………藤沢に決まってるだろう」
「そうか。あのバカは、自分がチョコ貰いたかったんだろうな」
ルームメイトである笠原の制止を振り切り、キラキラと瞳を輝かしながらいたいけな帰国子女に吹き込む後輩の姿が目に浮かぶ。
「それで強請られて作るお前もお前だがな」
「そう言うな。後輩が慕ってくれている内が花だぞ」
「わかってるよ」
蕩けた茶色が型に流し込まれていく。
さすがにハート型は彼でも抵抗があったらしく、平凡な四角い形だ。
「滝川(たきがわ)」
「ん?」
手元から視線は外さないまま、彼の柔らかなビターの声が返ってくる。
気心の知れた仲間にだけ返す、無防備さが甘く響く声。
「お前。アイツのこと、本気なわけ?」
しばらくカチャカチャと調理器具が鳴いていた。
薄い溜め息がひとつ落とされる。
「だったら、どうする?」
見返された瞳の静かな力強さに、予想していたとはいえ一瞬身体が固まってしまう。
こんな瞳をするヤツだっただろうか。
俺たちのリーダーは、冷静沈着で自律心が強く、いつだって落ち着き払った物腰で、悠然と構えているはずなのに。
「たとえお前でも、邪魔する気なら受けて立つが?」
「俺様がそんな野暮なことをすると思うか?どっちかっつーと応援してやってんの、知ってるだろ?」
「冗談だ。わかっている」
オーブンから芳しい香りが緩やかに漂ってくる。その甘さに溶けてしまいそうだ。
「ただ…」
「ただ?」
「意外だったなぁ、と」
彼はきょとんと目を丸くし、くすくすと笑い出す。
「あぁ、意外だったな。あんな暴れ馬に惚れるとは」
「みーんな、お前は時代錯誤な大和撫子と付き合うんだろうって言ってたからな」
「時代錯誤は余計だろう」
違う。そうじゃない。
彼は少し憮然としながら調理場を片付け、どこで手に入れたのか、空色の可愛らしい箱やリボンを取り出す。
滝川の筋張った大きな手に、それらはまるで似合わない。
「まぁ、俺自身、今でも驚いているからな」
彼の瞳が僅かに細められる。
ふわりと柔らかな風に包まれたような、そんな雰囲気に変わった。
それは、ごく些細な変化だ。
けれど、ひどく目を引く変化で。
「おーおー、惚気るねぇ。お熱いコトで」
「どこが惚気なんだ?」
「……………本物の惚気って自覚ないって聞くけど、本当なんだな」
「七海」
軽く睨んでくる彼を鼻で笑ってやる。
その時タイミング良くオーブンが滝川を呼び、難を逃れた。
意外だったのだ。
彼がこんな瞳をするとは、知らなかったから。
二年間、彼の隣で過ごしてきた自分でさえ。
「七海」
呼び声とコトリと何かが置かれた音に、我に返る。
「…これは?」
「お裾分け、かな」
皿の上で甘く柔らかに香る黒茶色。
出来立ての素朴な温かさが、思わずフォークを握らせる。
「…幸せの、か?」
「まぁ、そんなトコだ。」
彼は笑みを残し、綺麗にラッピングした箱を持って食堂を出て行った。
それを見送り、知らず知らずのうちに、口元が綻ぶ自分に苦笑する。
ずるい奴。
こうして餌を与えるのを忘れないのだから。
けれど、その甘さも悪くないと思っているのだから、自分は結局、絆されている。
「甘いのは苦手だって言ってんのに。胸やけ決定かよ」
茶色をつつきながらの呟きは、和やかに部屋に溶けていった。
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