ちょっとした危機的状況に跳ね上がっただけなんだ、僕の心臓は。
「ナオ、逃げるぞっ!」
「えっ!?」
いきなり手首を掴まれて引き立てられ、展開について行けないまま引っ張られて駆け出す。
「おい、カズユキ!俺たちを裏切んのかー!」
背後からアカギの間の抜けた怒声が追いかけてくる。
バタバタと騒々しい数人の足音が沸き起こる。
「ちょ、ちょっとアズマくん…!」
「いいから、走れ!」
戸惑いながら見上げた彼の顔は、どことなく楽しそうで余計に訳がわからない。
薄暗いゲームセンターを飛び出して、そのまま路地裏に入った。どこを走っているのか分からない。
足の速いカズユキについて行くのがやっとだ。
耳元で風が唸って、薄紅の街が視界を流れていく。
前方で、光がひらけた。
「ナオ、跳ぶぞ!」
「え……。」
振り向いた彼の色素の薄い髪が夕陽に透けて流れる。
キラキラと赤い星を髪に宿した彼は、口角を持ち上げて目を細めて笑った。
絵画のような幻想的な光景に目を奪われ、そして……。
惚けたまま、絵画の中に引きずり込まれた僕は。
「ひっ……ぅ、ぎゃぁあああああーー…!!!!!」
彼とともに、夕空に跳んだ。
「はぁ…っはぁ…し、死ぬかと思った…。」
すっかり乱れた息の合間から漏れた言葉に、カズユキは呼吸を整えながら快活に笑った。
「こんぐらいじゃ死なないって。人間ってのは意外とジョウブなんだ。」
ひどく子供のように無邪気な笑みを浮かべていた。
彼のそんな顔はなかなか珍しい…と思う。
追跡者の気配はもう欠片も無かった。
「アカギ達をうまく撒いたみたいだな。」
「そりゃ、ここまでして追ってきたら僕はアカギを尊敬するよ…。」
ようやく落ち着いた肺が軋むのを手で押さえつつ、呆れた気持ちも織り交ぜて息を吐く。
「アズマくん、ありがとう。」
「いや、アカギが悪いんだから。負けたヤツは罰ゲームって言い出したのはアイツなのに」
「まぁアカギは初めから僕に罰ゲームさせる気だったんだろうから。」
「それが気に入らない。」
少し憮然とした顔をする彼に、思わず苦笑する。
この逃避行の原因は、元を辿ればゲームセンターでアカギ軍団に出会ってしまったという不運にある。
アカギは素行の悪さで学年では有名で、時々いじめのターゲットを変えつつ幅を利かせている。
どこの集団でも一人はいるタイプだと思う。
そのアカギにちょっと目をつけられていたので、偶然の出会いがこんな顛末となってしまった。
「ナオってシューティング上手いんだな」
「まぁね。暇潰しに通ってるから」
「へぇ結構行くんだ?…ゲーセンにナオかぁ。なんか意外な組み合わせだ。」
「そう、かな?」
「そうだよ。真面目くんなイメージ強いだろ?」
本当はそれだけじゃないって知ってるけど、と繋げて口角を吊り上げる彼はやっぱり楽しそうだった。
フェンスを乗り越えて逃げ込んだところは、高架下の空き地だった。
ぽつんと取り残されたようなその空間に人影はなく、ただ夕焼けが空気に溶けていた。
興奮状態から我に返って、ふと手首に灯る熱が気になる。
気付いてしまうともう意識せずにはいられなくなって、何故か頬が紅潮してくるのが分かった。
「アズマくん、あの、手を…。」
「え?あぁ、ごめんごめん。」
彼はきょとんとした後、たった今気付いたと言うように掴んだままの手首を持ち上げてぱっと離した。
慌てて手首を自分の元に引き寄せて片手で包む。
なんだか、まだ熱い。
彼に掴まれた手首が熱い。
「綺麗な夕陽だなー。」
僕の戸惑いに気付かない彼は暢気なことを言いつつ、立ち上がって真っ直ぐ伸びをする。
キラキラとまた彼の髪に星が降りた。
その少し大人びた端正な容貌は、夕陽に染まってますます絵画めいて見えた。
「あのっ、アズマくん。どうして僕の味方なんか…。」
「ん?」
もともとカズユキはアカギと連れ立って遊んでいたのだ。
だからアカギは「裏切る」なんて口走ったのだ。
どうして彼のような、自分にとっては憧れを具現化したような人が助けてくれるのか分からなかった。
カズユキは神に二物も三物も与えられたような男の子だった。
長身に端正な顔と女子が黄色い声をあげるルックス、学年上位の成績をとる頭脳、どんなスポーツもこなす身体能力、その場の空気を読み誰とでもそつなく会話できるコミュニケーション能力。非の打ち所がないとはまさに彼の事。
少々不真面目で好奇心旺盛なのが玉に瑕だが逆にそれは同年代には好印象で、そんな彼は学校で常に生徒の輪の中心にいるのだった。
クラスの端の方で控えめにしている自分の事を、どうしてこんなに気にかけるのか。
こちらの心中を察したらしい彼は、くすりと笑みを零す。
「名前で…『カズユキ』って呼べって言ってるだろ?それが答え。」
「え、それって…?」
目を丸くすると、彼はまた笑った。
「アカギなんかより、ナオと居た方が楽しいってことだよ。」
ちょっとした危機的状況に跳ね上がっただけなんだ、僕の心臓は。
そうだ、きっとそうに違いない。
そうでないと、僕は困ってしまう。
夕焼けの中でもたらされた彼の笑顔と優しい声に、かつて無いほどどうしようもなく跳ね上がってしまった心臓。
顔に熱が集中して、言葉も出なかった。
───あぁ、きっと嬉しかったんだ。
帰宅してベッドに転がってからも、手首の熱は引かなかった。気になって仕方がない。
困惑したまま、そっとそのぬくもりを抱き締めて胎児のように丸まって眠った。
僕はもしかしたら、アズマくんのことが──。
予感がした。
もうすぐ何かが芽吹く予感が。
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