すっかり夜の帳が落ちきった頃には疎らにしか人影が無く、すれ違う人の顔もロクに判別できない。
マフラーの隙間から刺すように忍び込む寒気に背筋が震えた。
過保護な母に無理矢理身に押し付けられた手袋とマフラーも、己を完璧には守ってくれないようだ。
予備校からの帰り道をひとり。とぼとぼと歩きながら吐く息は、白く霞んで闇に溶ける。
塾で出された宿題や、学校の課題について頭の中で整理していたら、不意に下校時に配布された真っ白の紙の事を思い出した。
(進路、ね。)
そろそろそんな時期だった。
特に目標も無いので、漠然と進学することを考えていた。
そのために親に予備校にまで通わされているのだし、その事に不満や反発は無い。
ただ、これが自分の本意なのかどうか自信が無いだけだ。
生きていくための進路。
その方向を決める。
しかし。もっと根本的なところに引っかかっている自分がいる。
(あぁ、ボクはきっと馬鹿なんだな)
去来する想いに思わず嘲笑を浮かべる。
おそらくこの胸にどす黒く染み付いている想いを口にしたら、親もお節介な幼馴染みも烈火のごとく怒るだろう。
けれど分かっていても、それを1人では振り払えない。
そう自覚しているからこそ、自分は口を開かない。
濃さを増す染みがじわじわと内側から侵食して、足元を虚ろに変えてしまうとしても。
──カンカンカン カン。
前方で遮断機が甲高く鳴いて行く手を塞いだ。
参考書でずっしりと重い鞄を担ぎ直しながら、なんとはなしに黄色で遮られた線路を眺める。
秋にこの辺りを血のように赤く染めた彼岸花が跡形もなく消えて、ひどく殺風景だった。
(そういえば。)
脳裏を掠めたのは、最近よく耳にする噂。
「背中を押す幽霊…?」
「そう。モリヤもよく通るでしょ?坂下通りの先の踏み切り。あそこで出るんだって。」
「へぇ。」
「オノヅカ、そんな噂信じてんの?幽霊とか非科学的。」
「マイは信じなさすぎだよ。そんな言い方しなくても。」
「ナオは色々信じすぎ。アンタみたいのが詐欺に合うんだよ。」
「まぁまぁ、私も幽霊信じる派だから。」
「あっそ。で、その幽霊が背中を押してくるの?」
「らしいよ。暗くなってから下りた遮断機の前で1人立ってると、
向こう側に女が立ってて手を振ってるんだって。何だろうって思って目を凝らしてると、いきなり背中を…ドンッ!」
「それで線路に飛び込んじゃう、と。」
「そういうコト。」
「オノヅカ、ボクを怖がらせて楽しい?」
「まさか。違うよ、気をつけてってコト。」
「ま、よく聞く幽霊話じゃん。ただの噂だろ。怖がりなナオにはきつかったかなー?」
「マイ!」
幼馴染みと同じクラスの女子2人との会話を思い出す。
先程とは異なるうすら寒さを覚えて周囲を見渡すと、人気が無い変わりに幽霊の姿も見当たらない。
ほっとして肩を落とすと、鞄に下げているお守りが目に入った。
その中には、いつぞやのひまわりの種が入っている。
半年ほど前に亡くなった、好きだった娘との思い出の結晶。
愛犬の散歩にくっついて来ていた彼女と、この線路を渡ることもあった。
その度に、彼女がなにかをじっと悲しそうに見つめていた事を覚えている。
まさか彼女には何か見えていたのか。
彼女は不思議な人だった。そうであったとしても、納得してしまう。
──カンカンカン カン。
電車はまだ来ない。
下りたままの遮断機。
この向こうは、彼岸なのか。
ふって沸いた錯覚に刹那、身体が凍る。
暗闇の向こうに、彼女がいた。
「ニシナさん…!」
無意識に手が伸びる。足が勝手にふらりと近づく。
頭の中に響く遮断機の音が警鐘のように響いている。
麻痺していく。
ただ、ただ、渇望というどす黒い染みが叫んでいた。
遠くで警笛。反響。遮断。気配。そして。
──横からの衝撃。
「あ…」
地面に身体を打ち付けてなお、目を閉じることさえ忘れた瞳に威嚇するように唸り声を上げながら通過する電車が映った。
「…っ、ばかやろう!!」
放心してしまった身体に激情を伴った怒声が投げつけられ、そのおかげで自分を包む温もりに気付いた。
自分を背中から歩道に引き倒して下敷きになっていたのは、同級生の友人だった。
「アズマくん…?」
しかし彼の顔は見慣れた余裕ある大人びたものじゃなく。
驚きや怒り、恐怖が綯い交ぜになったような苦々しい表情だった。
こんな必死なアズマ カズユキは、初めて見た。
どうしてここに?とか、なぜ引き止めた?とか、様々な疑問が押し寄せてくるのに、
彼の泣き出しそうにも見えるその顔が自分の唇から音を消してしまった。
「…ナオ、頼むから…、頼むから、いかないでくれ…。」
搾り出された彼の声は、まるで神にでも縋るようで。
往来に倒れこんだまま、男に抱き締められているという異常に慌てることも出来ない。
「まだ、あっちに行くには早いだろ。そんなこと、ニシナ サクラが望む訳ないだろ。
あの娘は誰よりも強かった。純粋に、真っ直ぐに生きてた。ナオは知ってるはずだ。わかってるはずだろ。」
捕まれている両肩に彼の指が強く食い込む。
手袋をしていない血の気の引いた指先が、さらに白んでしまっている。
肩口で叩きつけられる必死な声は、掠れて解けて心地よく耳に届いた。
(ああ、ボクはやっぱり馬鹿だ。)
1人では払拭できなかった黒い染みが、彼の声で、温もりで、少し滲んで薄くなったのが分かる。
彼は、こんなにも、いとも容易く。
いや、きっと。彼だから。
「フラフラしてんなよ。お前は、こっち側にいなきゃダメだ。」
「うん…ごめん。」
彼岸と此岸は、裏表なんかじゃない。線引きをしたのは、ヒトにすぎない。
たった一歩で向こう側に逝ける。
でも、その一歩分が果てしなく遠い。
境界線を越えてしまえば、もう触れられない。
「じゃあ、さ。」
静かに落とした声に、彼が伏せたままだった顔を上げるのが伝わってくる。
「アズマくん、少しだけ付き合ってくれる?」
「!…あぁ。」
意味を察してそっと解放したカズユキは立ち上がり、手を差し出してくれる。
珍しく素直に手を重ねると、ぐっと強く握られてそのまま幼子のように手を引かれた。
彼と一緒に線路を渡る。向こう側には誰もいない。
渡りきって息を吐くと、変わらず白く煙った。
彼はまだ手を離さない。逆に強く握り締められた。やっと足元に重力が戻ってきた。
それがなんとなく寂しくて、そんな風に感じる自分を可笑しく思いながらも振り返る。
再び警報が鳴り、遮断機が下りようとしていた。
「あ…。」
向こう側で彼女が胸を撫で下ろして笑っている姿が見えたような気がした。
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