もし。
もし記憶というものに、果てがあるとしたら。
俺は、彼の涙をそこに封じてしまいたい。
それで、彼が笑顔を取り戻すことが出来るなら。
「モリヤ?」
唐突に、歩みを止めた彼を振り返る。
彼はじっと足元を見ていたが、そのまましゃがみこんで何かを拾い上げた。
それを、またじっと見つめる。
その赤みがかった琥珀の瞳には、不思議な色合いが滲んでいた。
妙に切ないそれが気になって、嫌な予感めいたものも感じて、俺は彼の手元を覗きこむ。
「…向日葵のタネ?」
彼の手のひらに大事そうに乗っていたのは、白に茶のラインが入った小さな一粒だった。
なんの変哲もない、よくある植物の種。
視線を上げて脇を見ると、枯れた向日葵が残っている花壇があった。
おそらくその種が、歩道にまで転がってきたのだろう。
残暑が厳しい9月とはいえ、そろそろこの黄色い植物は姿を消す季節であった。
「それがどうかした?普通のタネみたいだけど」
「ぇ、あ…っ、ごめん。………うん、普通のタネだね」
「?」
少し慌てたように顔を上げた彼と、視線が絡む。
しかし、すぐに逸らされた。
切ないような、懐かしむような、柔らかい表情が浮かんでいる。
それに魅入っていると、さすがに居心地が悪かったのか、彼は困ったような顔をして俺に微笑んだ。
「行こう、アズマくん。何でもないんだ」
「何でもないって顔じゃないぜ?」
そのまま歩き出す彼につられるように隣に並びながら、それでも俺は尋ねた。
ふわりと、夏の残滓が風に薫る。
夕暮の街はいつも時を止めている。
昼と夜が交わるその刹那に、少し哀愁を感じてなんだか愛しくなってしまう。
そういえば、彼はいつもこんな夕暮れに犬の散歩をしていた。
彼が想いをかけていた少女と、一緒に。
「………ニシナさんがね」
とくっ、と鼓動が跳ねる。
慌てて視界に入れた彼は、思いがけず柔和な顔をしていたので、僅かに見開いた目をすばやく隠す。
たった今思い出していた彼の想い人の輪郭を、また空に浮かべた。
「ニシナさんとマイとボク、3人でパトの散歩してる時にね。ニシナさん、向日葵のタネを見つけたんだ。」
無邪気で、天真爛漫で、あまりにも子供すぎて、周囲から孤立していた少女。
「そしたらニシナさん、どうしたと思う?食べちゃったんだよ。ぱくって!」
奇異な目で見られ、イジメられ、完全に浮いていたにも関わらず。
誰も憎まずに、誰も恨まずに、真っ直ぐに人の目を見ていた。
俺はどこかでそれに気付いていた。
本当は、別に変わった女の子なんかじゃなかった。
彼女はただ、大人になることを拒んでいただけだった。
彼が好きになった、普通の女の子。
彼女はもう、──この世には居ない。
「びっくりしてたら、『まずーい』って吐き出したんだ。当たり前だよねー。だからマイが怒っちゃって、まるでお母さんみたいに…」
「モリヤ」
遠くを見つめる彼の瞳に浮かぶ哀惜。
それでも懐かしむように笑みを作る彼が、少し痛々しくて、俺は思わず肩を掴んで言葉を遮った。
まだ彼女がいなくなってから、1ヶ月しか経っていない。
忘れるには、まだ早すぎる。
「無理に笑うなよ。泣いたって、誰もお前を責めないよ」
「アズマくん…」
記憶というものに、果てなどあるのだろうか。
もしあるとしたら、それはどんなに楽なことだろう。
傷を負った記憶を、果てまで追いやってしまえば良いのだから。
呆気にとられたように見つめ返す彼に、なんだか照れ臭くなって手を離した。
すると彼は、少し泣き顔が混じったような、困ったような、綺麗な笑顔を見せた。
「ダメだよ。いつまでも泣いてちゃ、ニシナさんに笑われちゃうから」
「ナオ…」
「大丈夫だから。ね?」
あぁ、違う。
たとえ果てがあったとしても。
彼は、忘れる事を望まない。
時間が想い出を削っていったとしても、彼は忘れたりしない。
たった一つの向日葵の種で、鮮明に思い出すんだ。
あの少女のことを。
「………くやしいな」
「え?」
ぽろりと零れた本音は、秋の虫たちの歌声に掻き消されて、彼の耳には届かなかったらしい。
大きな目で見上げてくる彼に、にっこりと笑いかける。
「なんでもないよ。そのタネ、持って帰って庭に埋めたら?確か、ナオん家って庭あっただろ?」
「あ…うん。そうだね。そうするよ」
大事そうに小さな命を握り締めて、彼は微笑った。
(あの娘に勝てるようになるのは、いつのことやら…。負ける気はさらさら無いけど)
心の中で宣戦布告して、僅かに苦笑する。
嫌な気分じゃなかった。
「きっと来年、花が咲くさ」
そう付け加えると、彼はまた目を細めて綺麗に笑った。
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