それから、ボクは話すんだ。
夏休みの事とか、お祭りの事とか。
新学期のあのとき、言えなかった事とか…。
ぱきり。
「ぁ…」
折れたシャープペンの芯が腕に当たって落下した。
その弾みで切れてしまった集中力に深く息を吐く。
背伸びをして固まった身体を伸ばしながら、ふと窓を見ると白いもくもくとした雲と真っ青な空。その上の方を飛行機が暢気に尾を引きながら横切っていた。
まだまだ暑い、夏の終わり。
あと1週間もすれば学校が始まるというのに、この暑さは何なのだろう。
しかも運悪く、部屋のエアコンは先日壊れてしまった。
いや、古いエアコンだったから連日の酷使に耐えられなかったのかもしれない。
視線を問題集に戻すと、その分厚かったはずの本がもう残り少ないことに気が付いた。
塾で課された宿題も、これで終わり。学校の宿題は、とうの昔に終わらせていた。
片付けてしまおうと、シャーペンをノックする。
しかし新しく出てきた芯は短くて、ぽろっと机の上を転がった。
「あれ?」
手探りで替えの芯を探していた手が止まる。 見つけたのは空っぽの細長いケース。
「切れちゃってたんだ…」
シャープペンの芯なんて常に予備が1個あるくらいで、切らしたことなどないというのに。
また深い溜息をついて、外を見やる。
飛行機雲は、もう薄くなって消えかけていた。 相変わらず空は青い。
青い。青い。呑み込まれそうなほど──。
突然、その青い空間に黒い影が横切って窓に張り付いた。
驚いて我に返ると、乱入者はけたたましく鳴き始めた。油蝉だった。
「買いに行かなくちゃ」
ついでに新学期用のノートなども揃えよう。 そう思い立って、重い腰を上げた。
『ナーオくーん!あーそーぼっ』
『聞いて聞いて♪あのね、マイちゃんがね…』
『パトは良い子だね〜良いワンコ〜っ』
陽炎のように彼女の声が降って来る。
まだ。
「おっ、モリヤじゃん。モリヤぁー!」
茹ったような、たゆたう思考に身を任せていた時、唐突に割り込んだ少年の声に思わず手に提げていたビニール袋を落とした。
白昼夢を見ていたような浮遊感から、急に現実が眼に戻る。
変化についていけなくて、視界が白い閃光に埋め尽くされていく。
「おっとと。モリヤ、大丈夫か?」
「アズマ、くん…?」
揺らいだ身体を支えてくれた長身の影を見上げると、少し焦ったようなアズマ カズユキの顔があった。
「熱中症?どっかで少し休むか?」
「ありがと。大丈夫だよ。ちょっと目眩がしただけだから」
「…別に、礼を言われるような事じゃないさ」
姿勢を正してみせると、彼は落ちたビニール袋を拾って渡してくれた。
「…えっと………久しぶり、だね」
「あぁ………ニシナさんの葬式の時、以来かな…」
あぁ、そうか。あの時は、学校のみんなも来てたんだっけ。
チクリ、と胸が痛む。 どこかで警鐘が鳴っている。
ダメだ。ダメだ。 考えてはいけない。
「ねぇ、アズマくん。宿題終わった?」
「えっ?あ、あぁ、終わったよ。言っただろ?俺とモリヤなら3日で終わるって」
「あぁ、そうだったね」
日陰を探しながら商店街を歩く。 視界に入る空は、青い。 他愛もない会話が続く。蝉がうるさくて、ときどき相手の言葉を見失う。
不意に、隣の影が立ち止まった。
「アズマくん?」
彼は少し俯いて何か考えているようだったが、すぐに顔を上げて真っ直ぐにボクを見た。
その視線に、何故かたじろぐ。
「モリヤ、ちょっと付き合ってくれる?」
そう言うと、ボクの手を取って足早に突き進んでいく。
掴まれた手首が熱い。
ボクは呆気に取られたまま、彼に引きずられていった。
高架下の小さな公園にある滑り台に、ボクは寄りかかって立った。
アズマくんは隣で同じように寄りかかっている。
不思議と子供たちの姿は無かった。
みな、この暑さで室内に篭っているのかもしれない。
ちょうど日陰になっているこの場所は、少しだけ涼しい風が吹いていた。
「モリヤも飲む?」
「ぁ、じゃあ、少しだけ…」
途中、自販機で買った缶ジュースを翳す彼は、少しほっとしたように微笑んだ。
咽喉が潤って、少しだけ落ち着いた。
「それで、話って…?」
「………………ニシナ サクラ」
幾らかの逡巡の後、ぽつんと落とされた言葉に身体が固まった。
『ナオくん』
彼女の姿が。 彼女の声が。 降って湧いたように頭の中を駆け巡る。
「俺、まだ信じられないんだ。あの娘が死ぬなんて」
「…………。」
「おかしいよな。ロクに話した事もないくせに。だけど…。あの娘に限って、こんなこと、絶対無いような気がしてたから」
「…………。」
複雑そうな顔をしながら、彼はどこか遠くを見ながら呟いた。
「モリヤは…辛い、よな…」
ゆっくりと紡がれた言葉に、はっとした。
そうだ。 学年中のみんなが、知っているんだ。
ボクがニシナさんを想っていることは、噂になっていた。ニシナさんは有名人だったから…。彼女のあだ名は“宇宙人”で、イジメの的だったから。
知らないのは、ニシナさん本人だけ。
無垢な、彼女だけ。
「ボクもだよ」
「ボクも信じられない。…葬式の後、泣いたんだ。ちゃんと、泣いたんだ」
「それなのに…。ダメだね。ちゃんと受け止めてあげなきゃいけないのに」
「今でもニシナさんがボクを呼びにくるような気がして。パトの、散歩に…」
「『今日はどこに行っちゃおうか?』って…」
一度堰をきった咽喉は、するすると言葉を紡いで淡々と溢れさせた。
手にした缶に力を込めると、ぐしゃりと凹んだ。
ついていた水滴に指が濡れる感触が切なかった。ボクは生きている。
「モリヤ…」
「だから、最近ずっと勉強ばかりしてたんだ。おかげでエアコンが壊れたよ」
「もういいよ、モリヤ」
「何かしてないと、潰れそうで。本当にダメな奴だね。またマイに笑われる」
「モリヤ」
「ずっと混乱してるんだ。認めたくないんだ。ボクは
「ナオ!」
両肩を強く掴まれて顔を上げさせられると、泣き出しそうな顔をしたアズマくんがいた。
アズマくんも、こんな顔するんだ。
「…ごめん」
「どうして…、アズマくんが謝るの?」
急に俯いた彼に、ボクは子供のように尋ねた。 掴まれたままの肩が痛い。
「俺、ナオを見てられなくて、こんな所まで連れてきたのに…。結局、苦しめてるだけだろ?」
「そんなこと…」
「そんな作り笑いしなくていいよ。無理しなくていいんだ」
「作り笑いなんて…」
戸惑いながら否定しようと首を振るのを、彼は強い眼差しで遮った。
「ナオ」
真っ直ぐな視線に、出かけていた言葉が壊される。 表層が、剥がれ落ちる音がする。
『ねぇねぇ、まーだー?』
『ごめん、もうちょっと…』
子供のように焦れるニシナさんを宥めながら、ボクはラジコンの調子を整えている。
しばらく動かしていなかったから、少し手間取った。
夕陽に染まる河原に、ラジコンが宙を舞う。
『あっ!ナオくんのヒコーキ!飛んだ!飛んだ!飛んだ!』
ニシナさんはボクの隣でぴょんぴょん跳ねて、無邪気に手を叩いた。
純心無垢な、眩い笑顔。
知的障害なんて、関係なかった。この笑顔がボクは愛しかった。
そのときボクは、一瞬。
ニシナ サクラが、霞んで見えたんだ。
気が付いた時には、アズマくんに縋り付いて泣いていた。
「……だったんだ」
嗚咽に混じる声は、感情の波で削られて掠れる。
それでもボクは、止まれなかった。
「好きだったんだ…っ!!」
やっと落ち着いてきて脱力感に襲われながら、ボクはアズマくんと夕陽を見た。 街が夕闇に染まっていく。
ボクと、パトと、…ニシナさんと。 2人と1匹で。
毎日、毎日、夕暮の街を散歩した。
彼女と歩くと、見えてなかったものが見えた。不思議な出来事も、いくつか起こった。知らなかった場所も、見つけた。 2人と1匹の、小さな秘密の冒険。
すべてが夕闇に彩られていた。
「アズマくん。ボク、楽しかったんだ」
「ボクとパトと…ニシナさんと、この街を探検するのが」
「夕暮の中を、歩き回るのが」
ひぐらしが鳴き始めた。もうすぐ夏が終わる。
それまで静かに聞いていた彼は、大人びた顔でボクを見つめて目を細めた。
「…モリヤ」
「なに?」
「ちょっと歩こう」
彼は、ぽんとボクの肩を叩いた。ボクは小さく頷いた。
二人でゆっくり土手を歩いた。ボクの手には、来る途中、花屋でアズマくんと割り勘して買った小さな花束。
河原には静かで柔らかな風が吹いていた。
ニシナさんとラジコンを飛ばした辺りに、ボクは彼を連れて行った。
「ここでいいのか?」
「うん」
彼に頷いて見せ、ボクはそっと手にした花束のリボンを解く。
彼女にこんな飾りはいらない。
包装紙も外して、ボクは花だけを両手に持って夕陽に掲げた。
夕陽に浮かぶ優しいシルエット。
眩しさに眼を閉じた。そして彼女の名を心の中で祈るように叫んだ。
ボクは、花を空に投げた。
「届いた、かな?」
「届いたよ、きっと」
小さな花が水面を滑っていくのを見届けて振り返ると、アズマくんは頷いてくれた。
風が吹き抜ける。
もうすぐ夏が終わる。 2人と1匹の、夏が終わる。
何かを忘れて、大人になっていくボクらだけど。 それでも。
この13歳の夏の秘密だけは、きっとボクらの中で生き続ける。
『 ナオくん。 』
夕闇のセピアに染まって。
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