ふと悪戯に白い鍵盤を指で弾くと、冷えた空気が震えて溶けた。
「何か一曲弾いてくれよ、若先生?」
「明継(アキツグ)…。その呼び方はやめろと、いつも言っているだろう?」
あからさまに降って来た揶揄する調子に顔を上げてみると、扉に凭れかかっていた長身の若者は大きく笑った。
そのままづかづかと部屋に入り込んで、勝手に洋燈に火を灯す。
それを咎める理由もないので、なんとなく彼を目で追い掛けながら椅子に座り直した。
「では、創一郎(ソウイチロウ)様。一曲、弾いていただけませんか?」
「嫌だね」
わざと恭しく頭を垂れる幼馴染みの戯れに、そっぽを向いて答える。
「何故?」
「僕の下手な演奏を、部屋で洋菓子を貪っているピアニストに聴かれたくはないんでね」
今頃、我が弟は住み込み書生を英国執事のように従え、若者が持ってきた手土産に舌鼓を打っているに違いないのだ。
あの弟は、天才という肩書きを、服についた塵芥のようにしか思っていない。
不遜極まりない愚弟。
兄としては些か複雑な心持を抱えていたとしても、仕様の無いことだと皆言ってくれるだろう。
「俺は好きだけどな。お前の音」
不意に落とされた心から惜しむ声色が、耳の中を転がって鼓膜で弾けた。
彼の暖かで活動的な笑みは、つくづくこの静かな家には似合わない。
「そういう言葉を不用意に口にするもんじゃない」
胸の内に火が灯されてしまう。
この仄暗い静寂が流れる夜には、彼の灯火は眩しすぎるのに。
書生の青年に言われたことが頭を過ぎった。
我々が、幼馴染みとはいえ馬が合うのが不思議だと。
そのときは笑って同意を示したのだったか。
「どうして?」
「どうしてもだ」
「…俺はお前とは違うから、そういう駆け引きは苦手だ」
彼の程よく日に焼けて節だった青年らしい指が、ポーンと鍵盤の一つを弾く。
己の白く華奢な手が、仄暗いの静けさに浮かび上がって見えて少し悔しく思う。
こんな指さえ、彼は綺麗だと言う。
女子じゃあるまいに。
「長旅だったな」
「あぁ、少しな」
彼の家は老舗の薬問屋だった。
まだ学生の身分ではあるが、商いを継ぐための修行と称して父親の商いに度々お供をしている。
そのためか、すっかり若旦那の風格がついて大学での彼は一目置かれている。
「西洋の医学書が手に入ったよ」
「ありがとう。父にも伝えておこう」
珍しい代物に自然と口元が綻ぶ。
我が国の医術は、西欧のそれとはとても比較できるものではない。
大学で医術を学んでいく内に、一刻も早く西欧諸国と肩を並べられるくらいにならなければと思い至り、
日々研究に骨身を削る日々である。
もっとも、文明開化のこの時代、若者であるならば皆そういう気風を持っている。珍しいことではない。
「お前、頑張っているよな」
「煽てても、何も出せないぞ。昨日、神保町で財布を軽くしてしまったからな」
「それは残念」
部屋の隅でかしこまっていた猫足の椅子を引っ張り出し腰掛けると、彼は笑みを深めた。
白い歯が宵闇に浮かぶ。
創一郎は、西洋の御伽噺に出てくる猫を思い出した。
「しかし、少しばかり急ぎすぎてはいないか。俺たちはまだ学生だ」
彼の口から聞く一般論に説得力は有りはしない。
不機嫌になるのを抑えられず、手元の白黒に目を落とした。
「さては、隆仁(タカヒト)から聞いたな?」
「あぁ。医者の不養生だなんて、絵に描いたようだな」
流行り風邪をこじらせて床についていたのは、3日前。
「重いか。紅林家を背負うのは」
いつの間にか、彼の笑顔は消えていた。彼の黒い瞳がじっとこちらを見つめている。
この瞳はいけない。
いつだったか、近所の女学生たちが彼の瞳に魅入られて赤面してしまった事があった。
「お前も同じようなものじゃないか。嫡子は苦労する」
「だが、俺は1人息子だ」
間髪入れずにやってきた言葉に、口を噤む。
彼は僅かに眉を寄せたまま、肩でゆっくり息を吐き出した。
柱にかかっている時計が刻む音が妙に耳について嫌だった。
「この世に必要なのは、なにも天才ばかりじゃないさ」
裏庭で寝ぼけた鴉の劈くような喚き声が聞こえ、身体が跳ねた。
「天才は貴重だ。しかし、世の中の多くは平凡だ。平凡と非凡を繋ぐ者がいなければ、この社会は発展できないと俺は思う」
柔らかく低い声は、夜の静けさに温もりを与えて溶けていく。
あぁ溶かされる。溶かされる。
「天才と世間を。先端技術と従来を。西欧と日本を。過去と未来を。」
「過去と未来、か」
ずいぶんと大きな話だと笑うと、彼は決まり悪そうに頭をかいた。
洋燈に照れされたからばかりではなく、彼の頬には朱みが挿している。堪えきれずに声を零して笑ってしまう。
「そうだな。俺には、こちらの音の方が似合いかもな」
そっと立ち上がり、ピアノの脇に置かれて所在無げにしていた大正琴を絨毯の上に引き出した。
橙色の明かりに照らされた、螺鈿装飾のそれは妖しい美しさを湛えている。
弦を爪弾いた途端、その音は誇らしげに響き、心根を洗い流してくれるようだった。
久方ぶりの演奏はお粗末なものだったが、こんな静かな夜にはそれも許される気がした。
調子に乗って数小節分の指を走らせたところで、不躾な眼差しに気付き手を止める。
「どうした」
「え」
「何を呆けている」
首を傾げて問えば、我に返ったらしい彼は目を丸くした。
慌てた様子で崩れていた居住まいを正している。
「明継?」
「いや、大した事ではない」
口に手を当てて考えを巡らせていた彼は、不意に破顔してこちらにやってきた。
警戒する間を与えぬためか素早く隣に座し、それから愛しむ様に琴を撫ぜる。
身長差ゆえにちょうど己の耳の位置にある彼の唇が、また不用意に言葉を紡いだ。
今度は、鼓膜が震えてその甘さに眩暈がする程だった。
「お前の音は美しすぎて、つい聞き惚れてしまっただけだよ」
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