潮騒のように繰り返し、さわさわさわと笹が奏でられている夜。
星の瞬きが遥か遠くで刹那に煌き、穏やかな天の川の五線譜の上に美しく散っていた。
────さぁ、願いごとは何だろう。
短冊を手に天上の逢瀬に想いを馳せていた隆仁(タカヒト)が、ふっと気配を感じて振り返ると、そこにいたのは己の若主人の兄だった。
創一郎(ソウイチロウ)は非常に優秀な頭脳の持ち主で、将来は医者になることを嘱望されている青年である。
洗練された空気を纏って見る者を和ませる笑顔を絶やさず、彼の一挙手一投足には深い優しさが染み込んでいる。
しかし年の近く親交を持つ隆仁は知っていた。
その清らかで女々しいとさえ感じられてしまうような美しい容姿を裏切って、彼の芯にあるのは冷酷すぎるほどの冷静さと、聡明さと、理智と、青い情熱であることを。
隆仁はそんな彼に、幼馴染みとして同志として友人として好意を持っている。
「願いごとが決まらないのか?欲張りだな」
からかって口の端を上げて笑うのは、優しげな面立ちの彼に何故か良く似合う。
二律背反の魅力とでもいえばいいのだろうか。
もしくは外界用の優しい顔を向けられないことが、自分を内側の者と認めてくれているようで誇らしいのかもしれない。
隣に腰を下ろして、縁側に散らばっている短冊を摘み上げる創一郎に手を振る。
「いえ、思い当たらなくて困っているのですよ。せっかく女中たちに貰ったので、たまには風流を実践しようと思ったのですが」
「はははっ、隆仁はいつも風流人じゃないか。…いや、浪漫主義者(ロマンチスト)か?」
「そうでしょうか?俺の普段をご存知でしょう」
隆仁は書生としてこの家に身を寄せている。幸い、学業も仕事もうまくこなせており将来は明るいが、普段は地道に雑事をこなすばかりである。
不思議がって見返すと、創一郎は目を細めて愉快そうに微笑み、短冊をひらひらと振った。
「達巳(タツミ)を見る瞳が、風流を知っているんだ」
確信を持って発せられた言葉に、隆仁は自分の頬が熱くなるのを止められなかった。
まだ幼い自分の若様の姿が思い起こされる。
確かに達巳は細工物のように美しい少年で、しかもその心は兄同様に強かであり、かつ兄よりもさらに豪胆で骨のあるので、隆仁は彼を弟のように可愛がっていた。
「美しいものを愛でる瞳。…まるで英国の忠誠を誓う騎士(ナイト)ようだ」
何もかもお見通し。
くすくすと意地悪く忍び笑う創一郎に紅い顔を隠すのも馬鹿馬鹿しくなり、隆仁は万年筆を押し付けるように差し出して書くように促した。
「そうおっしゃるなら、創一郎様だって同じではありませんか」
「僕が?」
「はい。明継(アキツグ)様と一緒におられる時の、創一郎様の瞳です」
狙い通りに言葉を失った創一郎に笑うと、すぐに気を取り直した彼に短冊で軽く叩かれた。
「騎士は奴の方だけどな」
「おや、自覚がおありなんですね」
また叩かれる。
彼の顔は羞恥でほんのりと色づき、眉が不機嫌そうに顰められていた。こんな戯れが許されるのは、隆仁だからなのだろう。
創一郎の静謐さを突き崩した話題の人は、近所に住む彼の幼馴染みである。明るく闊達で、情に厚い裏表の無い好青年だ。
彼の持つ相手を圧倒するような、熱く真剣な姿勢は創一郎の性質とまったく正反対のように思われるが、その実、二人は穏やかで暖かい時間を共有することができているらしい。
そのことに奇妙さを覚えながらも、隆仁はこの二人が幼馴染みであることを神仏に感謝している。
「今頃、何をしているだろうか」
「…そうですね」
二人は恋人たちの逢瀬を祝福するかのように彩る天を見上げて、それぞれ今ここにはいない者たちを想った。
明継は家の用事でここ三日ほど留守にしているらしく、また達巳は学校の友人達と旅行に出掛けていた。
初夏の香りを含んだ風が、さわさわと笹を奏でている。
いつのまに作ったのか、女中達の手によって色とりどりの紙細工で飾られた大きな笹は縁側に括りつけられて、静かに隆仁と創一郎を見守っている。
そんな情景の中で星空に心を浮かべていた隆仁が、ふと脳裏を掠めた考えに苦笑したその時、創一郎が乱暴に髪をかきあげた。
「まったく人というのは我が儘だな。天の二人は一年に一度しか逢えぬというのに、たった三日逢えぬだけで願いが浮かんでしまう…」
「………それが、人というものかもしれませんよ」
彼の意外に弱気な言葉に驚きながらも、隆仁は零れる笑みを止めなかった。
「こんな風だから、我々は自宅の縁側なんぞで星を眺めているんだな。織姫と牽牛からの忠告だ」
そう冗談めかせて言いながら創一郎は筆を走らせ、隆仁にも書くように促した。
今なら隆仁にも書けた。
「何を書いた?」
「教えてしまうと叶わないのでしょう?」
だから秘密です、と目で訴えると、創一郎はつまらなそうに唇を尖らせた。
『無事にお帰りなさいますように 隆仁』
『早く帰って来い 創一郎』
そんな短冊が笹の天辺の方で揺れていた。
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