散りぎわのそれは、ひどく淡く、幽かなる音も立てずに宙を舞う。
月影にさやかに愛でられ、ほんのり色付き光る。
その残り香を吸い、隆仁(タカヒト)はそっと酒に口をつけて啜った。
「あの桜も愛いやつよ。昨年、病にかかったときはもう駄目かと思ったが…。またあぁして健気に咲いて我々を楽しませくれる」
夜の湖のような深みを持つ声の主は、暖かな鷹揚さを馴染ませて目を細めて庭を見ている。
春先にしては暖かで、どこか艶めいた空気が澄み切っている夜だった。
闇に浮かぶ桜を愛でようと、酒瓶を片手に誘いに来たのは彼だった。隆仁がこの世で最も敬っている師、紅林 章造(クレバヤシ ショウゾウ)。
「お前と酒を呑めるようになって、もう一年か…」
「急にどうなさったんです?昔話など、先生らしくないですよ」
隆仁は隣にくつろいで座す男をそっと伺う。
春香を運ぶ風に身をゆだねるその姿は、普段の白衣をまとって厳然とした輝きを瞳に宿す彼よりは幾分か優しく見える。
「いや、なに。お前も成長したという話だよ。初めて会ったときお前は…、あぁ、ちょうど達巳(タツミ)と同じくらい、か?」
「はい。十四でした」
「そうか…もう七年もこの家にいるか。早いものだな」
「えぇ」
述懐は人を心地よく酔わせてくれる。
艶やかな桜も相まって、二人は夜の闇に浮かぶ。
「隆仁」
「はい?」
静謐な水面に一雫を落とした章造は、じっと隆仁に見つめた。
その穏やかな奥になにか得体の知れない熱を感じて、隆仁は本能的に身を竦めてしまう。
「先日、取り寄せた洋書が届いた。もう読んだから、好きに使ってかまわんぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
隆仁の心情を察したのか、予想を外れて平凡な言葉がかけられた。
しかし彼は意味深に笑みを浮かべ、いまだにじっと隆仁に視線を注いだ。
思わず隆仁は決まり悪くなって、そっと目を伏せる。
「ふふ。まぁ呑みなさい。」
そう言って隆仁の杯に酒をついでしまったので、慌てて顔を上げて酒を注ぎ返した。
すると彼はまるで眩しいものでも見るように目を細め、そっと新しい酒に口を付けながら、
「お前も…愛いやつよ」
優雅な彼の動作に見惚れていた隆仁は、その密やかな秘密めいた響きに、少しのわだかまりが生まれるのを禁じえなかった。
それを押し込めるため、酒を一気に呷った。
いやな酔い方をした。春の夜は甘く濃い。
ひっそりと月に照らされる廊下を歩き、自室までの短い時間で隆仁を胸をすっきりさせようと何度も深呼吸した。
秘密めいた酒宴は、妙な罪悪感をもたらしていた。眉間に力が入る。
(今宵はどうかしている。早く寝てしまうのがいいだろうか…)
かぶりを振りながら自室の障子を開けると、居るはずのない大きな猫がいた。
「ずいぶん父上に付き合わされたようだな」
「達巳さま…っ?」
少年は大きめの瞳に確かな光を宿しながら、まっすぐに隆仁を見据えた。
線の細い彼は窓辺に腰掛け、色の薄い髪を夜風に遊ばせていた。
そうしていると彼は西欧式の絵画か、白磁の細工物のように見える。
風に惑ったのか、桜の花弁が畳に落ちている。それは不思議と淡い光を帯びて色付いていた。
「どうした」
「いえ…………少し呑み過ぎてしまっただけですよ」
怪訝そうに眉をひそめた彼に、何故かぎくりとしながら苦笑を作る。
「お前も大概お人好しだよな。律儀に父上に付き合うことなんかない。」
「しかし、書生の身ですから…」
窮しながら障子をぴったりしめて彼の傍に座す。彼は器用に片眉を跳ね上げて不機嫌そうにふいと顔を背ける。
「ふん。あのくそ親父め。俺を追い出しやがって」
「追い出すだなんて…。仕方ないでしょう。達巳さまは、まだ未成年でいらっしゃいますし」
苦笑しながら宥めていると、彼はくるっと振り向いて睨むようにこちらを見た。
その強い意志にかたどられた瞳にどきりとする。
こういう所が父親に似ていると、心底思う。相手を従わせる覇者の瞳だ。
「隆仁」
背伸びをした、落ち着き払った少年の声。
「はい」
居住まいを正してそっと見上げ、彼をしっかりと瞳に映すと、彼は満足そうに笑みを浮かべ、
「お前は、俺のものだろうが」
傲慢な響きを帯びて紡がれたことば。
少し驚いて固まっていた隆仁は、柔らかく破顔した。
「はい、達巳さま」
緩む口元を隠さずに微笑みを返すと、彼はまた顔を横に向けて窓の外を眺めだした。
そのさらさらと風に踊る猫っ毛から覗く耳がほんのりと赤みをさしているのに気付き、隆仁はくすくすと忍び笑いをした。
もう悪酔いは覚めていた。
───これだから、貴方にはかなわない──
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