暖かな陽射しが夜の帳に覆い隠され、ちらちらと輝く星影が代わりにか細く天球で瞬く頃。
ぼんやりと霞んで闇に滲む月を仰ぎ見つつ、廊下をそっと歩く。
微かに風の吹く、穏やかな夜。
庭はしんと静まり返っていた。
梅雨には蛙の合唱が、秋には虫たちのオーケストラが響く所だとは到底思えない。
そんな光景に、隆仁(タカヒト)は目を細める。
廊下が薄暗いからこそ、月明かりが十分照らし出していた。
自分の部屋の前に着いて、書物で塞がった手を器用に動かして障子を開けた。
と。
迎えたのはいつもの無人の闇ではなく。
半分ほど開け放した窓から忍び込んだ宵風が、さらさらと癖の無い髪を撫でて。
無遠慮に入り込む冷たく静かな明かりは、その滑らかな頬を光の粒子が流れる。
魅入った。
と、思ったのは、実はほんの一瞬で、すぐに奪われた目を取り戻した隆仁はそっと息を吐く。
落胆のような、呆然のような、しかし柔らかな。
「どうして貴方は…そう、いつも唐突なのですか…」
閉じられた睫が揺らがないよう、紡いだ声は謙虚だった。
しかしその美しい曲線を描く黒い縁取りは、配慮に反してゆっくりと持ち上がる。
現れた琥珀の光彩に感嘆しながらも、慣例どおりの言葉の到来を身構える。
「遅い。…一体どこにいたんだ」
まだ半分だけ覚醒したようでいながら、高いわけでもないのによく通る少年の声は明確だ。
気怠げに身体を起こした少年の、大き目の瞳に浮かぶ強い眼差しに、思わず苦笑しながら障子を閉めた。
「蔵の方に…。少し調べ物がありまして、蔵書をお借りしました」
そう言いながら書き物机に両手を塞いでいた荷物を降ろし、彼の邪魔にならないような所へそっと腰を降ろす。
これではどちらが部屋の主人であるか、一見には分からない。
そんな考えが過ぎって、隆仁は柔らかな苦笑を刻む。
目の前の彼は隆仁の微妙な機微など意に返さず、「そうか」と小さく呟いて、またぱたりと横になった。
「それで、ご用はなんでしょう?」
猫のような仕草に無意識に口元を緩めながら、書を手に取る。
古い埃の匂いが香った。
それが機嫌を損ねたのか、彼は眉を僅かに顰めてこちらを睨み付けた。
大き目の瞳が月影に煌いて鋭い。
「用が無ければ来てはいけないか?」
「いえ、そんなことはありませんが…」
「ならば、問題無いだろう」
言い捨てながら彼は、またその琥珀の輝きを瞼の裏に仕舞い込んだ。
さらさらと髪が揺れる。
今夜の風は無遠慮な好き者ばかりらしい。
彼の美貌を讃えるように、風も光も闇も静かだった。
隆仁は一つゆっくりと呼気を空気に還元し、部屋中に満ちる静謐を崩さぬようにしながら書き物机の上のランプに手を掛ける。
そっとそっと、壊れ物でも扱うようにマッチ箱を持つ。
ちゃり、と僅かに軽い音が響いた。
「おい」
「はい?」
年下とは思えぬ不遜で凛とした声に捕まった隆仁が振り返ると、彼は目を閉じたまま不機嫌そうな顰め面を作っていた。
自分は何か、この幼い若旦那の機嫌を損ねることをしただろうか。
「何か…?」
「明かりを灯すな」
まるで美しい死体のように仰向けに寝転がったまま、静かに開かれた少年の口がきっぱりと言う。
「しかし……明かりが無ければ書が読めません」
柔和な苦笑を浮かべると、それを声で察したのか彼は顔に書かれた不機嫌の文字を更に濃くした。
少しの沈黙。
部屋に再び白い朧な光が流れる音と、闇がたゆたう音だけが満ちた。
そして、唐突に小さな花が開くような調子で、ぽとりと落とされた旋律。
「……隆仁」
心臓に悪い柔らかな声。
隆仁は跳ねた鼓動を言い包めながら、手招きをする手に従って彼の横に座した。
すると、今まで閉ざされていた宝石が急に現れ、猫目石のような不思議な輝きを放った。
彼の瞳に自分の姿が見える。
彼は口の端を吊り上げて、微笑った。
「達巳(たつみ)様?」
思わず名前を口にすると、少し驚いたような顔をし嬉しそうに目を細めて笑った。
そしてそのまま流麗な動作で、正座をしている隆仁の膝に頭を乗せた。
「あの…っ」
さらに早まる動悸に心乱れ慌てる隆仁の声など、気にも留めず。
彼はまた目を閉じて、珍しい枕の心地を確かめるように幾度か頭を擦り付けながら満足げに。
「今宵は、読書を諦めろ」
紡がれた言葉は鷹揚なのに。
彼の口元は年相応な無邪気さで笑んでいて。
「隆仁…」
そう紡いだ唇は、数分の内には安らかな寝息を零していた。
さらさら、さらさらと風が流れて、淡い光が踊る。部屋に満ちる。
先程と違うのは、生命の吐息が一つ増えたことだけだろう。
隆仁は降参の意を示すように後ろ手に手をついて膝を明け渡した。
わかってるのか、いないのか。
そんな溜息を吐いてしまいそうだった。
全力疾走していた動悸は駆け足程度に治まったけれど、それでも長距離は厳しいと思う。
さて、この足と心臓と理性が堪えられるだろうか。
この大きな猫は、何もわかっていない。
猫は自分の縄張りであることを示すために、自分の匂いをつけるという。
そしてその縄張りの点検のために、散歩のついでに必ずそこに立ち寄るという。
この自分より七つも年下の猫は、毎日、必ず隆仁の部屋に一度は来る。
それが意味するのは。
じっと眺めていても飽きない寝顔に口元が綻ぶ。
さらさらと光を撒きながら彼を愛でる月影に見習って、隆仁も手を伸ばした。
絹のように滑らかな、日本人にしては珍しい栗色の髪をさらりと髪を撫でる。
指を抜ける感触が癖になりそうだった。
「とりあえず、俺は貴方のものってことですかね…?」
答えぬ猫に、くすくす笑う。
さらさら、さらさらと風が流れて、淡い光が踊る。部屋に満ちる。
月の朧が震えた。
その晩、部屋に灯りはつかなかった。
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