「 純情キャッチャーコールド 」









教室の片隅で盛大なくしゃみが放たれる。


「…ックション!!ちくしょうべらぼーめっ」


鼻を押さえて唸りながらポケットをまさぐっていると、向かいで呆然としていた笠原(カサハラ)が我に返ってそっとティッシュを差し出してくれた。
それを有り難く受け取るが、隣で狂ったように笑い始めた藤沢(フジサワ)が背中を叩くので上手く鼻をかめない。


「豪(ゴウ)、お前、いつから江戸っ子になったんだよ!ヤベェ…っくく、腹が割れるっつか、攣りそう…っ!」

「え?日本人って、くしゃみしたら語尾にコレつけんじゃねーの?」

「違うよ。今、ソレ言うのは東京にいるお年寄り限定。誰に聞いたんだ…?」

「七海(ナナミ)…センパイ」


腹を抱えて教室の床を笑い転げる藤沢は無視だ。
‘また騙されているぞ’と憐みの視線を向ける笠原に同じ寮に住む先輩の名を告げると、 納得したのか深い溜息が返された。
そう言えばくしゃみの豆知識を教えてくれた時、彼の紫がかった瞳はひどく愉快そうに歪んでいた気がする。


「豪も懲りねぇのな。あの人に騙されるの何回目?」

「とりあえず、片手じゃ足りない」


ようやく笑いを収めて目尻に滲んだ涙を拭う藤沢に、右手を開いて突き出して見せる。


「まぁ、七海先輩もくだらない嘘しかつかないから」


フォローに入る笠原に‘分かっている’と手をひらつかせる。

萌黄寮に入った直後は、彼との衝突が多々あった。
‘帰国子女かつ芸能人なんて厄介な人種に寮住まいは不適切だ’という彼の主張は正論で、逆にこちらのネームヴァリューに物怖じしない彼に好印象を受けたのを覚えている。

それから色々あって、今では日本暮らしの師匠だ。
若者の流行やら季節の行事やら古い風習など、その博識を分け与えてくれる。
しかし時々、軽い冗談を織り交ぜてくるのは、やはり最初の抵抗の名残なのか。
それとも、先輩呼びが身に付かない自分へのお仕置きなのだろうか。
くだらない嘘なのは分かるが、その度にこうして友人や知人に笑われるのは少しばかり癪だ。
寮に帰って顔を合わせたら、文句を言ってやろう。


「あの人の意地悪は無差別だから置いといて。お前、風邪とかヤバイだろ。」

「Ah…、あんま良くないな」

「気をつけなよ。商売道具でしょ」


机を抱きかかえてやる気なく座っている所を覗き込んできた藤沢は、少し心配そうだった。
笠原の手がぽんぽんと頭を撫でて、マスクをくれた。


「アメ食う?」

「食うー」


食い意地の張った藤沢までポケットからキャンディを取り出す。
くすぐったい気持ちを笑いながら可愛らしい色のキャンディを口に放ると、ちょうどチャイムが鳴り響く。


甘くて爽やかなレモン味のおかげで、なんとか午後の授業を乗り切れた。





「ックション!あ゛ー…」

「God bless you. 風邪か?」

「あ、フレッド。Thanks.」


スタジオのロビーで噛り付くようにしていたテーブルから顔を上げると、よく知っている長身のアメリカ人の青年が視界に入った。
彼は自慢の金髪を後ろに撫でつけて、首から関係者であることを示すカードを下げている。
どうやら仕事だったようだ。


「風邪、なのかなぁ?」

「俺に聞くなよ。医者に聞け」


‘ついでに薬も貰うといい’と片目を瞑って気障に付け足して、彼は重そうなカメラケースを置いて隣の椅子を引いた。


「何の仕事?」

「雑誌の撮影。それよりアイツはどうした?他の奴らは?」


手にしていた缶コーヒーのプルトップを起こしながら、彼の涼しげな青い瞳がきょろきょろと周囲を確認する。
いちいち絵になる絵を撮る側の男に思わず苦笑する。


「エアなら、車をこっちに回してくれてる最中。今日は俺ピンの雑誌インタビューだったんだよ」

「なるほどね。でもそれなら、こんなトコにいなくても…って言うのは愚問か」


こちらの表情で察した彼は、苦笑すると缶を呷った。
コーヒーの香りと、彼がいつもつけている香水の匂いが鼻を掠める。

目立つから控室で待つように言われていたけれど、籠った空気が嫌でロビーまで逃げてきていたのだ。
もともと狭い所は嫌いだし、目立つ云々を気にするタイプならミュージシャンなんてやってない。
そういうこちらの気性を十分に把握できるくらい、彼との付き合いは浅くない。


「ずいぶん参ってるようだな。熱は?」

「まだ無いと思う。…たぶん」

「おいおい、本当に大丈夫か?」


珍しく気弱な言葉が気になったのか、フレッドの手が額に当てられる。
身体が怠くて仕方ないので、されるがままで机に突っ伏していたら、そっと離れた彼の手が帽子越しに頭を撫でて離れた。


「ほら」

「?」


席を立って数分もしない内に返ってきた彼の声が降ってくる。
不思議に思って身体を起こすと、手に滑り込んできたのはまだ熱いココア缶。


「Take care of yourself.…これ、好きだったろ?」

「ぁ…………うん」


故郷にいた頃。

そして、フレッドの恋人だった頃。


風邪を引くと、彼はよくホットチョコレートを作ってくれた。
あったかくて、甘くて、心配そうに見つめる青い色の瞳が優しくて。
安心すると同時に、柔らかな何かに胸を締め付けられて、涙が出そうになってしまう。

そんな事、しばらくその甘さに浸れば、すぐに寝入って忘れてしまうのだけれど。


「Thank you. フレッド」

「Your welcome. 早く治せよ。俺の大事な卒制のモデルなんだから」


それからエアハルトが迎えに来るまで、彼は世間話をして次の仕事に出掛けていった。





「…甘い…」

「豪、何か言ったか?」

「なんでもねぇ…」


運転席から心配の声をかける世話焼きなマネージャーに、ぞんざいに返すと彼は複雑に苦笑したようだった。

甘すぎたココアは、結局半分しか飲めずに舌と胸を焼いて喉にこびりついてしまった。











「ただいまぁー」

「おかえり」


無意識に口をついて出る帰宅を告げる挨拶は日本語。
それに応じる同居人の声もすっかり耳慣れた。

ほっとして帽子を脱ぎ捨て荷物を放り、自らの身体もベッドに投げ出す。
ふかふかな布団と清潔なシーツ。おそらく今こちらの顔を覗き込んでいる彼の仕業。


「どうした?顔色が良くない」


前髪を丁寧に掻き分けて額の温度を計る大きな手が心地好い。
不思議なことに、先刻同じ仕草をした男の感触とはまるで違う。

しばらくそうしていて欲しかったのに、眉を顰めた彼の手はすぐに離れて行ってしまった。


「熱は無いが…放っておくと出そうだな」

「風邪っぽい。エアが薬くれた」

「風邪なんて珍しいな」


言いながら加湿器やエアコンの設定を直す彼の背を、なんとなく眺める。
少しだけ兄の後ろ姿と重なって見えた。自分の周りには世話焼きが多い。


「さっさとシャワー浴びて寝るんだな。それとも、明日の朝にするか?」


大きな体躯を屈めて、壊れ物を扱うように抱き起こされる。

優しい黒い瞳が甘く細められていた。
恋人のそれが少しだけ気に入らなくて、肩を抱く手を払い除けて立ち上がる。


「今入る。明日、学校行きたい」

「そうか」


特に気を悪くした風もなく、彼はタオルと着替えを掴んでシャワー室に入るまで見送った。


「……甘すぎなんだよ」


どろどろに溶けた甘さは、胸の奥を蝕むようで、 自分の未熟さを思い知らされるようで、チクチク刺さってくる。





恥ずかしい独り言を熱いシャワーに掻き消してもらい、幾分か己を取り戻して部屋に戻ると、彼は寮に備え付けられた簡易キッチンで小鍋を火にかけていた。
漂う、ふんわりと柔らかな香りと温もり。


「栄(サカエ)、なにしてんの?」

「ん、風邪にはコレが効くから」


‘少し待ってろ’と振り返る視線で告げられて、首を捻りながら大人しくベッドに腰かけた。

色素のない白く長い髪が纏わりついて面倒な事になりながら、ドライヤーで乾かしていく。
バスケットボール部で鍛えた栄の広い背中には不釣り合いな、若草色のエプロンリボンが腰の辺りで揺れている。
何の気もなくそれを眺めて呆けていたら、湯気立つカップを手に振り返った彼は溜息を吐いて咎めた。


「豪、ブラシは?」

「ん」


絡み合ってぼさぼさの白髪を見かねたのだろう。
サイドテーブルにカップを置くと、ブラシを受け取り、隣に腰かけて髪を丁寧に梳き始める。


「風邪で辛いのは分かるが、お前もプロならこういう事もきちんとしてくれ」

「栄がしてくれるんだから、いいじゃん」


プロ以前にもう高校生なんだし、と続きそうな小言を微笑みで阻むと、彼の口からは先程よりも盛大な溜息が出た。


「それより、ソレ何?なに作ってくれたの?」


これ以上甘やかす言葉を聞きたくなくて、湯気がゆらめく自分のマグカップを指差して尋ねた。
栄は真剣な眼差しを手許から離さないまま、一つ頷いて‘風邪に効くもの’と答えた。

緑茶や紅茶だろうか。
それとも以前、祖父に無理やり飲まされたくず湯とかいう日本の古い飲み物だろうか。あれは苦手だ。

髪を整え終えて満足げな栄が手に取って差し出したカップを、少々不安がりながら見る。


「………milk?」

「あぁ。…少し子供っぽかったか?でも、よく温まるし眠くなるから」


予想外れの優しい白色に目を丸くしていると、勘違いした彼が照れくさそうにしながら言い訳する。
受け取ったカップから、じんわりと熱が伝わって指先を温めてくれた。

そうっと口に含むと、柔らかい甘さとほんのりレモンの風味。
それらは柔らかく咽喉を潤して、胸に落ちて染みていく。


「美味しい」

「そうか、よかった。俺の母親が風邪のときや眠れない夜によく飲ませてくれてたんだ」

「へぇ、栄のお母さんって洒落てんのな」


褒めると彼は少し照れながらも微笑んで、肩を抱いて支えてくれた。

彼の大きな手にすっぽりと納まる華奢な自分の肩をちょっぴり恨めしく思う。
こんなにも年齢の割に懐の深い男の優しい母親に挨拶する日がいつか来るのだろうか、なんて考えながら、ちびちびと牛乳に口をつける。
いつの間にか、先刻までの棘々した気持ちが洗われてしまっていた。


「それ飲んだら、薬飲んで寝ろよ」

「O.K.」


素直に頷くと、満足げに微笑んだ彼はそっと立ち上がり自分の机に戻っていった。課題をやっていた途中だったのだろう、再開を告げるノートを捲る音。

ふと手元に視線を落とすと、優しいはちみつレモンミルクが気が付くと半分以上腹の中に消えていた。
こびりついていたはずのココアはどこにも見当たらない。


「栄」

「なんだ?」


栄が不思議そうにちょっと身体を捻って振り返る。 あの彼と、目の前の逞しい背中の何が違うのかなんて自分でもわからない。

だけど。

自分は、このくらいの甘さが好きなんだ。きっと。


「Thank you!」
「…っ!」


飛びついて頬にキスを贈ったぐらいで、ほんのり頬を朱に染めて固まるような彼が好きなんだ。





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風邪をひくとつい人に甘えたくなるもの。by穂高 2011/02/22