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頼りない小さな蛍光灯が懸命に夜の暗がりを照らす中でボールを叩くと、 それは思いの外、乾いた音でよく響いた。 断続的なその音と、砂利の上をスニーカーが滑る音と、自らの呼吸の音。 誰も居ない校舎裏は、それだけで満たされる。有り難い場所だった。 そんな自分だけの小さな世界は、ほんの僅かな異物の混入で壊れてしまうのだけれど。 「相棒はどうした?」 警戒を解いている時に本気で驚くと声も出ないというのを、久々に体験した。 頭の片隅で冷静にそんなことを思いながら、振り返る。 「藤沢(フジサワ)なら、メイファ先輩の所に押しかけてますよ」 「またかよ。ここまでくるとファンを通り越して、ストーカーだな」 「いまに訴えられますよ」 小さく声を出して笑う七海(ナナミ)につられて口元を緩めながら、 上がっていた息を整える。 じわりと汗が額に浮かんだ。 鬱陶しくてTシャツの肩口で拭おうとすると、彼は手にしていたタオルを差し出してくれた。 好意に甘えて受けとりながら、ちらりと彼を見上げる。 紫がかった瞳は、天上の月を映していた。 「…七海先輩」 「ん?」 「いつから知ってたんですか?」 同室の藤沢と月明かりの特訓を始めたのは先月。 練習試合で簡単な、しかしそれ故に非常に悔しくてたまらないミスをして負けてしまった翌日のことだった。 特に口にする機会も無かったので、先輩方は知らないはずだった。 「先週。たまたま通りがかったら、ボールの音がしたんだ」 彼の形の良い唇が皮肉げに歪められる。 それがどうしようもなく様になってしまうのが悔しくて、少し意地悪をすることにした。 「たまたま、なんて、嘘つかないでください」 「は?」 「先輩、自主トレの帰りだったんでしょ。でもおかしいな。木曜はランニングじゃないはずなのに。 あ、先週水曜に雨が降ったから、メニューを入れ替えたんですね」 つらつらと出てくる言葉に、彼は目を瞠った。 ほんのりと頬に赤みが差すのが、外灯の下でも分かった。 「な、なんで知ってる?」 「さぁ、どうしてでしょうね?」 タオルを返しながらにっこり笑ってみせると、 動揺した彼は乱暴にそれを受けとった。 「まさか…皆、知ってるのか?」 「まさか。俺と滝川(タキガワ)先輩くらいじゃないですか?」 ほっと胸を撫で下ろす様子が年上で格好つけの彼にしては幼く見えて、 くすりと笑みを零してしまう。 それを不思議に思ったのか、彼は髪をかき上げつつ口を開く。 「滝川はともかく……笠原(カサハラ)にバレてるとは思わなかった。」 少しの照れと悔しさが混じった顔。 己の感覚はズレていると分かっていながら、思ってしまった。 可愛いと。 「…ずっと、見てましたから」 吹き抜けた風が彼の漆黒の髪を撫でて、星屑を残していく。 言葉を失くした彼は、後ずさるように外灯に背を預けた。 俺は、その隣に膝を抱えてしゃがみ込む。 彼の隣で見上げる夜空は、高くて、星に手を伸ばすことさえ、躊躇われる。 「俺、見てましたよ。先輩が、レギュラー獲る前からずっと自主トレしてるのも。 ときどき1年に混じってボール磨いてるのも。風邪気味のヤツには飴とかジュースとか渡してるのも」 それでも伸ばしてみた手のひらで、月を隠してみる。 「……お前な。恥ずかしくないのか」 光が指先から漏れる。 「そりゃ恥ずかしいですよ」 羞恥に苛まれて、たまらないのだろう。 彼は逃げ道を失った。柔らかな沈黙に後押しされ、つい口を滑らせた。 今夜はどこかすべてが穏やかだった。 騒がしい藤沢がいないからだろうか。 「見てましたから、分かります。先輩が滝川先輩をずっと見てたことも。全部、知ってます。」 最近恋人が出来た親友の名が出た途端、彼の身体が強張ったのが空気で伝わってきた。 「だったら…、何なんだよ」 「別に?」 喧嘩腰で身構える彼が可哀相なので、顔を上げ目を合わせて笑ってみせた。 咎めるつもりは無いのだ。 ただ、もう少し。口を滑らせてみたくなってしまっただけ。 「俺じゃダメですか?」 「え」 再び絶句した七海に機嫌が上向きになる。我ながら、趣味が悪い。 けれど、饒舌で完璧主義者な彼が自分の一言一言に翻弄されているという事実が、 愉快でたまらないのだから仕方ない。 困惑する彼の向こうで星が瞬いている。 その星に手は届かない。 そんなことは分かっている。 どうしても、と、駄々を捏ねられるほど、もう子供じゃない。 「冗談ですよ」 勢いよく立ち上がって膝を伸ばしながら呟くと、一瞬間の空白の後、 彼はやっと肩を下ろした。 「バカ。先輩をからかうな」 「先輩が練習の邪魔するから、いけないんですよ」 調子を取り戻そうと悪態をつく彼に舌を出す。 異国の血が混じって紫を帯びている彼の瞳が安堵に煌いた。 あぁ、ほら。 星が。 「だってお前、日が落ちてから1人でカラーコーン相手にドリブル練習って 熱血すぎるだろ。どこのスポ根漫画だよ」 「七海先輩にだけは言われたくありません」 「おっまえ、相変わらず可愛くねー」 「可愛くなくて、結構です」 星は俺なんかに掴まっちゃいけない。 そもそも高い所にいてくれないと、この眼には眩しすぎるし。 胸を締め付ける何かよりも、当たり前に差し伸べられる温もりを選ぶのは当然だろう。 不意に小さな星が滲んで見えなくなり、俺は彼に見られないよう顔を伏せた。