毎朝。毎朝。
重い身体を押し上げるようにして坂を上って、大学の中に入っていく。
それはそんなに楽しいことじゃない。 っていうか、正直朝からしんどい。
でも。
そんなことを繰り返すうちに、実は結構、色んな事が分かったりする。
「河井(かわい)君。なぜ、この坂が定年坂というか知っているかね?」
斜め前で白髪のポニーテールが揺れて、年の割りにガタイの良い男が振り返る。僕は息を切らしながら視線を上げ、銀杏の黄色に染まる坂を眺めた。
それから、まるで少年のようにキラキラした目でこちらを見ている彼に、わざとらしいまでのうんざりという顔をしてみせ、
「知ってますよ。『定年間近の教官は登れなくなるほどの、急な坂だから』でしょう?どこかの愉快な学生が名付けたとか、どうとか…」
「そう、つまり!私はまだまだ現役だということだよ!」
(これが言いたかったんだな…。)
HAHAHA☆と白い歯を光らせて笑う色黒の初老の男は、自分がティーチングアシスタント──助手みたいなもの──をしている新井田(あらいだ)教授である。
御年5●才にしてこのパワー。
さらに長い白髪を一つに結いあげた怪しい風袋は、大学教授などという肩書きさえなければ、どこかのサーファー小屋の親父のようである。
まるで文系だとは思えない、真逆の雰囲気なのだ。
そしてこの教授は見た目だけでなく、中身も相当、『変』だと言われている。
構内で奇人変人コンテストを行ったら、かなり上位…いやもしかしたらダントツ優勝してしまうかもしれない。
それでも研究者としてはかなり優秀で、日本でその分野においては一目置かれているのだから、更に性質が悪い。
だから僕みたいな大学院生が、しっかり教授のお供をさせられちゃうわけで。
(いや、研究者としては尊敬してる。うん。ただ……ただ……っ!)
俯いていた顔を上げてちらりと先行く彼を見やると、何がそんなに愉快なのか高笑いしながら、
「老いぼれのジジイどもは、もう坂を登れんだろうっ」とか、「私がこの大学を支配する日も近いぞ!」などと、数々の問題発言を実に爽やかな笑顔とともに発している。
(こーゆー所さえなければ……!!)
一瞬、学部生時代からの恩師に対して本気で殺意を抱きつつも、頭を振って“教授の子守”という自分の任務を思い出していた頃、ふっと視界に柔らかなトーンの声が滑り込んだ。
「いやぁ、ほんにココらへん、雪降らんトコでよかったよなぁー」
聞き覚えのある声に辺りを見回すと、前方のちょうど坂の中腹あたりに見覚えのある青年が2人。
葛城洋平(かつらぎ ようへい)と黒須幸(くろす さき)。
秋風に弄ばれる黒髪を掻き上げながら感心したように呟いた葛城は、隣の変人教師のゼミ生であり、僕の後輩だ。
「…………なぜ?」
そして彼の隣に並ぶ黒須は、人目を引く氷の人形のような美青年……なのだが、相変わらず淡白でリズムの外れた反応しか示さないようだ。
遠目でもわかるほど、葛城が思いっきり溜息をついているのがわかる。彼が見上げるのにつられて、僕も視線を動かした。
てっぺんが見えないほどの急勾配。
階段、坂、そして階段と続く心臓破りの連続コンボ。
「よぅ考えてみ?こんな急な坂に雪なんて積もったら、雪ダルマ型の死体がいくつも出来てしまうやろ?」
「……雪ダルマ……」
「……………………今、『可愛いかも』とか思っとるやろ」
思わず僕まで愉快な大惨事を想像して青ざめる。
「雪ダルマ合戦……」
「「!?」」
雪ダルマ姿で雪合戦する大学生たち。
生死をかけた熱き戦い。
S大学名物!?
一瞬にして巡らせた思考をストップさせたのは、年輪を重ねた快活な声だった。
「やぁ、カツラ君、無口君。今日も良い天気だね!」
彼らに追いついた教授は、なぜか2人の間に割って入って追い抜いてから振り返る。
(ぜったい、学生の方が前を歩いてて悔しかっただけだこの人!貴方は子供ですか…!?)
そんなツッコミを心中で入れていると、そんな僕とは対照的に葛城はいつもの飄々とした笑みを返し、
「おはようございます。カツラ“ギ”です。途中で止めんでください。しかもアクセントが明らかに“ヅラ”を意味する方になってますから」
「ん、おぉ、そうだったな。カツラ君」
(分かってないっ!あぁっ葛城が静かに怒ってる!毎回毎回、同じ事をっ!もしやこれは彼らのコミュニケーション方法なんだろうか…?)
教授はいつまでも名前を正確に覚えないし、葛城は間違われるたびにしっかり訂正している。ありえる話だった。
「……先生、今日は曇りですよ?」
かなりリズムを外して妙なところに淡々とツッコミを入れた黒須青年に、教授は「ちっちっちっ」と指を振る。
何をしてもいちいち芝居がかっているのが、新井田教授の特徴だ。
「何を言うんだね。晴れは眩しい、雨は面倒。曇りこそ最高の天気だ!」
「教授……またそんな事を…」
「あぁ、なるほど。」
(納得…!?)
真顔でぽんっと手を打った黒須に思わず凝視すると、彼はきょとんとして小首を傾げた。
…なぜだろう。 もう二十歳をすぎた男だというのに、小動物系の仕草が違和感が無いのは。
「ところで君たち。アレは君たちの友人じゃないかね?」
「はい?………っ!!」
教授が指差した先には、数メートル先で危なっかしくふらつく見覚えのある後姿。
「あぁ…シンゴ。いや、あいつは友ではな」
「そんな事言ってる場合じゃないだろうっ!」
山の斜面に建っているこの大学では、階段でふらつく事は死を意味する。
運良く怪我で済んでも足の怪我なら、さぁ大変。ここは松葉杖なんかついて登れるような場所じゃない。バリアフリーの真逆、バリアフルだ!
そんな風に数秒で、日頃の不満・不平が僕の頭を駆け巡っている間に、ふらついていた青年の命は救われた。
「おい、大丈夫か?しっかりしぃ!…っと、寝とるんかいっ!」
「んん?おはよう…何?俺、男に抱かれる趣味はないよ」
「俺だって無いわ」
なんだってこんな緩い会話ができるんだっ!
自分が年上だと言うことを、すっかり忘れてしまいそうな二人の落ち着きぶりである。
「どうしてお前は歩きながら寝れるんだ…しかもこんな坂を」
「あ、河井さん。はよーっす」
「あぁ、おはよう…いや、そうじゃなくて」
「そんなもの、睡魔が勝手にやってくるだけだろうが」
「さすが先生☆よく分かってらっしゃる♪」
やはり変人同士は気が合うのだろうか。
急に目覚めてキラキラした目を教師に向ける彼に、世界の真理を垣間見る。
隣で呆れたように溜息を吐いた葛城に、賛同を求めようと振り向くと、
「…来る。構えろ」
「え?」
「あー、またか…」
ぼそっと呟いたもう一人の変人に、葛城はしょうがないねんなぁ〜などとブツブツ言いにっこりと笑んで、
「河井さん、そこ、退いてた方がえぇですよ」
何が来る…?
そう問うよりも早く、
「ぅひゃーーーっ♪」
「ぎゃぁああーっ!」
頭上から降ってくる悲鳴。
いや、なんか奇声?喜声?
見上げると何か二つの固まりが物凄いスピードで駈け下りて…いや転がってくる!
「ほいよっと♪」
がしぃっ!
「なっ、な、な…っ!」
砂塵の中から現われたのは、両腕に人を抱えた葛城青年。
…ん?人?…人!?
「きゃーきゃーっ死ぬっばかーっユウのばかーっ!!」
「高野、しっかりしぃ。もう止まったで?」
「ぎゃー……って、へ?」
彼の右腕に納まっているのは、何度か見かけた事のある娘だった。
確か、不幸にもサキの弟と関わってしまった子だとか。
「た、助かった…!って、ユウ!なんで私も巻き込んでんのよっこのバカ!」
「ぅう〜〜…??」
叱責を浴びているにも関わらず目を回したまま、なんだか楽しそうに呻いているのは黒須の弟である。
このちびっ子は、いつだって元気ハツラツ、天真爛漫。「騒動あるところに、黒須 雄大(くろす ゆうだい)あり。遠巻きにすべし。」という教訓を僕達の学科で知らない者はいない。
「ユウ」
「うぅん?…サキ兄?」
さすがの変わり者も、弟には優しいのだろうか。それても兄らしく叱るのだろうか。
手を差し伸べて、転んだ子供を抱き起こすようにして弟を立たせたサキは、服についた埃を払ってやり、至極真面目な顔をして。
「…今朝は何だ?」
意味が分からない。
が、弟には通じているらしく、彼は頷くと照れ臭そうな笑顔を見せた。
「自転車に乗ったまま山のてっぺんから下りたヤツいないっていうからさ〜。いっちょ、伝説作っちゃおうかと」
「そうか、それじゃあ仕方ないな」
(ユウ君、君はすでにいくつも伝説作っちゃってるから!サキも納得するなっ!)
なんだか意識が遠のいてしまいそうだった。
「河井さん、河井さん」
「あ、か、葛城っ?」
「大丈夫ですか?はよ行かんと、授業に間に合いませんよ?」
「ぁ、あぁ、行かなきゃな!」
葛城に顔を覗き込まれて我に返った僕は、だいぶ先で手をぶんぶん振っている教授に追いつこうと歩を進めた。
とりあえず今日分かったことは。
(僕の周りには変人ばかりってことと、葛城が最後の砦ってことかな?)
ふと振り返ると、にっこりとまるですべてを見透かすような慈愛の笑みを返されて。
(…………訂正。僕の周りには変人ばかりってことと、実は葛城が最強かもしれないってことだ…っ!)
----End.----
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