狡いと、思った。
久々に訪れた空間は、相変わらず愛用の煙草の匂いに染まっていた。
それに眉を顰めたのも最初の内で、今ではすっかり慣れている。
そんな自分を快く思うのさえ、なんだか滑稽だった。
いい年した男が、年下の部下に振り回されているなんて。
「大佐〜、俺の話聞いてます?」
「ちゃんと聞いている」
「嘘ですね。大佐は嘘つく時、瞬きの数が通常より数回増えます」
「なに…!?」
「冗談です」
嘘吐きはお前じゃないかと、眉に皺を寄せながらビールを呷る。
今日のハボックの機嫌は、かなり良好だった。
仕事帰りにロイが夕食を奢ってやっただけで、こうして尻尾を振ってくる。
これだから忠犬などと呼ばれるのだと、ロイは溜息をつきながら口元を緩ませた。
最近は仕事に忙殺されていて、二人で過ごす時間など一体何週間ぶりだろう。
何の気負いもなく、彼の部屋で酒を飲むのはロイのお気に入りだった。
そんなロイの心情に気づいているのか、いないのか。
ハボックは両足を投げ出して、ソファに持たれながらビールを飲んでいる。
「大佐?怒ってるんですか?」
「いや、別に」
ハボックは苦笑して、隣に座るロイの髪にそっと触れた。
漆黒の艶やかな髪は、ハボックの節くれだった男らしい手の間をすり抜けていく。
久しぶりの感覚に、なんだか背中がむず痒くなる。
「拗ねないでくださいよ」
「拗ねてなどいない」
ね?と微笑んでみせる部下に、上司は子供っぽく顔を背ける。
その仕草に、ハボックが微笑んだのが分かった。
妙に感じてしまう照れを隠すため、そのまま視線を彷徨わせていると、キッチンに珍しいものを見つけた。
「ハボック、あれはなんだ?」
「あれって、あれですか?」
指を刺すハボックに、神妙な顔をして頷く。
彼は怪訝そうに片眉を上げて答えた。
「…鍋、ですが?」
「そんなことはわかっている」
キッチンのコンロの上に置かれているのは、わりと大き目の深い鍋。
ハボックが意外にも自炊派なのは知っているが、それでも軍人生活ゆえに簡単な料理しか作れないという。
実際、コンロに鍋が乗っている図など今、初めて見たところだ。
ロイは、思い切り顔を顰めて呟いた。
「……女か?」
思った以上に苦々しくなった響きに、心の中で舌打ちする。
しかし、返ってきたのは間抜けな声だった。
「はぁ?俺に彼女いないの知ってるでしょうが。前にアンタに取られて以来、さっぱりと」
「じゃあ、あれは何なんだ」
皮肉りながらけらけら笑う彼に憮然として、指で指し示す。
妙に深刻になってしまった自分の意識を恥じりながら、それを巧妙に隠した。
笑いを収めた彼は、あっけらかんと言い放つ。
「俺が作ったんスよ。ちなみにクリームシチューです」
「クリームシチュー?」
不可解そうな音律で反復した様に、またハボックは苦笑した。
そしてぽんぽんと子供をあやす様に髪を撫でるので、ぴしゃりと手を叩き落とす。
この男は自分をちゃんと年上だと認識しているのだろうかと、ロイは思う。
それでもあの鍋の由来を知りたくてじっと見上げると、ハボックは意外な名前を口にする。
「大将が、好きなんですよ」
「…鋼の、が?」
「はい。エドの奴、筋金入りの牛乳嫌いっしょ?なのに、牛乳たっぷりのクリームシチューは好物なんだとか」
「…とんだ偏食家だな」
「同感です」
頷くと、ハボックも右手を上げてうんうんと頷いた。
しかしエドワードの食の好みと鍋が結びつかない。
「それをどうしてお前が作っている」
「食べさせようと思って。明日、帰ってくるじゃないですか、あいつら」
「は!?」
思わずコップを落としそうになり、慌てて両手で支えた。
その反応が意外だったのか、ハボックは軽く目を丸くする。
「あれ?伝えてませんでしたっけ?」
「聞いていない…」
「すみません。忙しかったからつい、言い忘れてたんですね」
乾いた笑いを零して誤魔化す部下に、これ見よがしに溜息をついて見せた。
最近、ハボックとエドが親密なのは知っている。
金髪同士だし、遠くから見れば年の離れた兄弟のようだった。
しかし、それにしてもハボックが食事を振舞うほど、エドが懐いているとは。
ハボックは人当たりも良いし、エドのことは弟のように可愛がっている。
おそらくエドがハボックに抱いている好意の意味を、この男は気づいていない。
ちりり、と、胸が焼ける。
能天気に笑う彼を見ながら、ロイは黒曜の瞳を伏せた。
狡いと、思ってしまった。
エドは子供だからというだけで、彼の中で優遇される。
じわりと胸の奥に焔が灯る。
それは焔の錬金術師にさえ操れない火。
分かっていながらそれを抱いてしまうことに、ロイは苛立っていた。
黒い思考を渦を巻き始めようとしたとき、軽い何気ない調子が遮って、ロイを思考の波から引きずり戻す。
「あぁ、大佐も食べます?結構多めに作ったんで、大佐の分もあると思いますよ?」
「食べる」
そのたった一言で、こんなにも自分は。
ロイはハボックに気づかれないように苦笑した。
それは本人が想像しているよりも、ずっと柔らかいものだった。
いつの間に、こんなにも。
たった一言で、舞い上がれるようになったのだろう。
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