それは言えない事の一つ。
「ロ〜イちゅわ〜ん元気でちゅか〜?」
「…気色悪い口をきくなら即刻、中央に帰ってくれて構わないが?」
「何だよー相変わらず連れないねぇロイちゃん」
「………。」
「わぁっタンマタンマ!炭にして送り返すのはやめてくれっ」
執務室の扉をノックしようとして、聞こえてきた声に思わず手を止めた。
それでも手にしている書類が視界に入り、仕方なく拳を再び軽く握ると背後から凛とした靴音。
「あら、ハボック少尉」
「ホークアイ中尉」
書類を手に現れた中尉は、顔を上げて俺を見た。
何だか少し罰が悪くて、空いている片手で頭を掻く。
「ヒューズ中佐、来てたんですね」
「えぇ、つい先ほど。」
中から聞こえる談笑につられて微妙な視線を扉に向けてしまうと、中尉が目を細めるのがわかった。
「仕方のないことよ」
落とされた旋律は、ふわりと舞いながら重く響いた。
諦めというより許容。
身に染みてわかっていた。
一度短く息を吐き、俺はやや乱暴にノックをした。
「よぅハボック少尉!まーた女に振られたんだって?」
「放っといてください!」
「ははははっ」
からからと豪快に笑い飛ばしたヒューズ中佐の前を通り過ぎ、上司の机に書類の束を追加する。
「大佐、余計なこと言わんでくれます?」
「なに、余計なことではないぞ?独り身で寂しい部下の心配をしてやるのも上司の勤めだろう?」
面白がっているだけだ、絶対。
「では、その大事な部下のために仕事を進めてください」
クールに言う中尉に、大佐はあからさまに嫌そうな顔をする。
「少し客人をもてなす時間をくれたっていいじゃないか」
「ロイ・マスタング大佐。俺を客扱いするのか?水臭いヤツだな」
ソファで寛いでいる中佐がにやにやと笑いながらコーヒーを啜ると、ますます大佐の眉が顰られる。
「お前は親友を売るのかっ」
「あぁ、お前の有能な部下にならな♪」
「おまえは〜っ」
中佐の訪問を理由にサボる気だったらしい。
「という訳ですので、これお願いします」
そして注がれる視線。
「なんスか。俺は逃がしたりしませんよー」
「くそっ」
味方のいない大佐は、ついに観念したのか渋々再びペンをとった。
「失礼しました」
パタンと扉を閉めて空間を断つ瞬間に、和やかな談笑が耳に流れた。
あの様子では、仕事はあまり進まないだろう。
でも、今日はそれでよかった。
「仕方のないこと…か」
紫灰の煙を吐く。コツコツと靴音を響かせれば静寂。
ここ最近、大佐は調子が悪かった。
テロ騒ぎやら何やらが連日連夜で、司令部はフル回転だった。
そしてある爆弾事件の時、不幸にも負傷者が出た。
それは最前線にいた、俺の部下の一人で。
幸い、大事には至らず骨折程度で済み、3ヶ月後には退院できるという。
もちろん、軍人たるもの、負傷する…いや、命を賭ける覚悟くらい皆持っている。
それでもあの意外と部下思いの上官は、その事件以来、調子が悪い。
あれは、たとえイシュバールの英雄であっても予想がつかないくらいの突発事故だったというのに。
あれに、心を痛めるならば、俺が最もすべきであるのに。
ふぅ…と溜息を紫煙に含ませ、また深く吸い込んだ。
苦味しか持たない有毒が、俺の肺を黒く染めていく。
俺たちは何とか大佐の心を回復させようとしたが、上手い言葉や対処が見つからなかった。
あの人は、滅多に弱みなんか見せない。
おそらく、大佐は。
負傷した兵士に。
───俺たちを重ねてしまったんだ。
覚悟など、とうにしている俺たちに。
「今更だっての」
ぼそりと文句を呟いて喫煙所に辿り付いた俺は、すっかり煤汚れているソファに腰を下ろす。
周囲に人影は無く、ただ煙草から立ち昇る煙だけが動いている。
今頃、屈託無く笑っているだろう上司を思い浮かべて、俺は僅かに眉を顰めた。
「わかってんのになぁ…」
自分はあくまでも、あの人の部下だ。
あの、大佐と唯一同列に並ぶことのできる暖かい笑顔の男に、敵うはずがない。
けれど。
なんだか情けなくなりながら、また煙を吐き出した。
ゆらゆらと立ち昇ったそれは、視界を白く染めすぐに霧散していった。
「もうちょっと…」
もう少しだけ。
近くに置いてくれたっていいのに───。
そうしたら自分たちは、彼のように、あの人を。
「大佐の無能…」
いっそのこと、彼のように言ってしまえる自信があればよかった。
『俺を信じろ』
それは言えない事の一つ。
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